コインランドリーで失踪

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文体の舵をとれ第三章

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の第三章を読んだ。本当は昨日やる予定だったのだが、バタバタしていて落ち着いて取り組めそうになかったので昨日は休みとした。一日やらないだけで、ちょっと本を開くのが面倒になるのだからすごい。なんとか第三章のページをめくることができた。

文の長さに最適はない。変化に富む(原文では傍点)のが最適だ。いい文体において文の長さは、前後の文との対比や相互作用(と言わんとすること、やろうとすること)から決まってくる。

孫引きになるが、引かれていたヴァージニア・ウルフの手紙が良かったのでこちらもメモしておく。

文体とはごく素朴な問題であり、つまりはすべてリズムなのだ。いったん乗れば、もう間違った言葉は出てこない。ところがかたや、朝も半ばを過ぎてここに座っているわたしは着想(アイデア、とルビ)や夢想(ヴィジョン、とルビ)などでいっぱいなのに、その正しいリズムが得られないために、そいつを外へ出せないでいる。今やこれはたいへん深刻で、リズムとは何か、そう、言葉以上のはるか深いところに入っている。情景、情感がまず心のなかにその波を作り、そのあと長い時間を経て、見合った言葉が生まれてくる。

文体はリズムというのは実感するところで、文体の合う合わないは結局、音楽性の違いなんだろうなとよく思う。なぜかこの人の文章はつっかえたり読み落としがよく発生するな、と思うのは、その人の文章の巧拙だけでなく私とその文章の間にあるリズムの相性の合う合わないでもあるのだろうと感じることが最近多い。そういった文章の場合は、一言一句こぼさぬよう精読するほかないが、そうでなく「相性の良い」文章を読んでいるときの喜びといったらまた格別のものがある。

今日の練習問題。

 

練習問題1
一段落(二○○~三○○文字)の語りを、十五字前後の文を並べて執筆すること。不完全な断片文は使用不可。各文には主語(主部)と述語(述部)が必須。

 

ここでは、十五字前後をだいたい十二〜十八字であると解釈して書いてみた。が、たまにその範囲を少し外れてしまっている。やっぱり、たった六文字の範囲でも、長い文章のあとには短い文章を無意識に持ってきてしまっていて、書き終わったあと字数を数えながら修飾語を挿入したり削ったりして調整するはめになった。(たとえば、「甥がこちらを見る」を「甥がこちらをじっと見る」にしたり、「ぼく沖縄に行きたい」を「ぼくさ、沖縄に行きたい」に変えたり。)

また、問題文には[英語の主語+述語という主体と動態の関係構造は、日本語にそのままで当てはまるものではないため、たとえばここでは、〈何〉について〈どう〉であるか、のように主題を対象とする陳述・叙述が成立していればよいものとする]と訳者の補足がある。私は、主語を省略しちゃダメなのむっず!と思いながら書いて、書き終わってからその読み落としに気づいた。

 

 甥はカワセミが好きだった。カワセミは宝石なんだって。ホバリングって飛び方があってね。クチバシがこんなに長くてね。丸っこい手を甥が広げる。全体の大きさはこれくらい。大型の鳥類図鑑を甥の手が指さす。「メスは下クチバシが赤い」図鑑は小さな体から大胆にはみ出ている。甥の口は止まることがない。アカショウビン、ぼく見てみたいんだ。アカショウビンカワセミの仲間だよ。図鑑で見るそれは名前の通り真っ赤だ。ぼくさ、沖縄に行きたい。甥がこちらをじっと見る。うるうるした目がわたしを射すくめた。ママに相談しておくね、とわたしは言う。次の休みは半年後だろうか。その頃にはこの辺一帯雪景色だ。沖縄の冬は、鳥たちに優しいだろうか。実はね、と甥が声を潜めて言う。見たことあるんだ、カワセミ。パパが山に連れて行ってくれた。キッチンの姉をわたしは目の端に留めた。どうだった?とわたしは聞く。きれいだったよ、と甥はまた囁いた。カワセミは枝にとまってた。宝石っていうのは本当だったよ。
 半年後、わたしは多忙を極めていた。甥のクリスマスにわたしはドローンを贈った。甥はまだカワセミに夢中だろうか。あの年頃の興味の移り変わりは早い。アカショウビンはきっと雪を知らない。南へ行った甥の父親もまた、同じく。

 

練習問題2
半~一ページの語りを、七○○文字に達するまで一文で執筆すること。

 

第二章では句読点を使ってはいけなかったが、今回は句読点は使用して良さそうだ。確かに、第三章では「セミコロンを恐れるな!」というル=グウィンさんの主張がかなり強くて、そうした「区切り」を駆使して文章の流れをつくれ、という課題なのだろうと理解した。でも、「日本語にはセミコロンないもんな〜」と思いながら、結果として鉤括弧やダッシュ三点リーダーをやたらと多用することとなってしまった。

すべてが「、」で区切られ、長大な一文で出来ている小説として、佐川恭一『受賞第一作』を思い出す。読み返そうかな。

 

 ……店に着くと行列ができていて、わたしは前に並んでいる客に何が起こったか尋ねるはめになったのだが、その客が言うにはレジが壊れてしまったのだというから大変だ、これはドーナツ――言い忘れていたが、店というのはわたしが敬愛してやまないミスタードーナツのことだ――にありつけるのはだいぶん先のことになるだろうと時計を確認しようとしたところ、「三十分ですって!?」と老婦人の金切り声が割り込んできて反射的に顔を上げる……店員が二、三名――うち一人は制服が少し豪華だから偉い奴に違いない――が客に囲まれておろおろしているのが見える、先ほどの老婦人の隣にいた男性が今度は「それまでは会計できないってことですか?」と立て続けに質問を浴びせたのに応え、その(おそらく偉い)店員が「大変申し訳ございません。現在最善をつくしておりますがなかなか復旧のめどが立たず……」と沈痛な面持ちで深々と頭を下げたものの、店内に一瞬で蔓延した「こりゃあかんわ」という空気が晴れる気配はない――それからの客の行動は早く、我先にとカウンターへトレーやトングを返却しては「三十分もかかるんでしたらちょっと……」と言いながら次々そそくさと退店していった――あとには、わたしと、どうしてもドーナツでないとダメなのであろう子連れ客くらいしか残されておらず、子どもたちの方は何が起こっているのかいまいちよくわかっていない様子、普段と何かが異なるということだけが察せられるようで、心なしか目がらんらんと輝いているようにも見えないこともない――レジが直るまではどうせ待ち時間で、ドーナツの陳列されたカウンターの前に並ぼうが並ぶまいが大して変わりはないだろうという判断から、わたしは先に店内の席取りを行うこととし、ちょうど良い席に腰掛けるとその隣の席で子連れ客の両親が困ったように顔を見合わせている――「じゃあね、埼京線に乗ってミスド食べに行くのと、メトロに乗ってパン食べに行くのと、どっちがいい?」よく分からない二択を彼の息子に提示しているが、よく分からない二択であることに変わりはないので当の息子は「なぜ既にミスドにいるのに移動せにゃならんのですか?」とでも言いたげな不服そうな面持ちで、どちらとも応えず頑として座席から動こうとしない……おそらく、息子は鉄道好きの子どもに違いない、それで大して好きでない埼京線に乗ってミスドを食べに行くか、それとも彼の好きなメトロに乗ってパンを食べに行くか(おそらくこちらが両親の選択してほしい回答だろう)、つまりミスドを妥協する代わりに好きな電車に乗っていいからここを離れませんかという交渉だったのだろうと推測されるが(息子からすれば、そもそもなぜそのどちらかを選択しなければならないのかに納得できないのだ)、子ども相手に交渉をするのは大変だということがよくわかった……結局、レジの復旧にさほど時間はかからず(三十分は冷静な数字ではなかったようだ)、少ししてから無事にドーナツを購入することができ、その息子らもその場でミスドにありつくことができたようだった、わたしは待たされた分を取り返すようにフレンチクルーラーとダブルチョコレートとシュガーレイズド(三つも!)を注文した。

 

・第三章までの課題をやってみて、そういえば全体の字数制限は全然意識してなかった気がするなと思い至った。練習問題2は七◯◯文字で良いのに、結局千三◯◯文字くらい書いている。反則ではないと思うが、これが半〜一ページの語りであるかどうかは若干疑わしい。また、練習問題1は一段落しか書いちゃダメっぽかったのに二段落めを書いてしまっている。消したくないのでそのままにしておこうと思うけど…。

・本書では、大体一段落が二◯◯〜三◯◯文字、一ページが七◯◯文字程度とされているようだが、どういう基準なのだろう。

・練習問題にはテーマ案をつけてくれているのだが、問一は緊迫・白熱した動きのある出来事、問二は感情が高まっていくさまやおおぜいの登場人物が盛り上がってひとつになるさま、といった例示がされている。私の書いた文章は、どちらもそれに当てはまらない感じがする。問一の方が動きがなく、問二の方も別に終盤盛り上がるわけでもない……まあ、あくまでテーマ「案」ですし……。

文体の舵をとれ第二章

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の第二章を読んだ。

文章がかっこいいな〜というバカみたいな感想が浮かんだ。

なぜなら実際、とりわけ書き言葉における言葉遣いはひとつの社会問題、すなわち、わたしたちが理解し合う手立てについての社会一般の約束事であるからだ。

書き言葉ではなく話し言葉の話をするのはどうなんだ、という感じだが私が思い出すのは『雨に唄えば』のリーナ・ラモントだ。サイレント映画がトーキー映画に変遷していくなかで、彼女は酷い訛りの言葉しか話せず歌も満足に歌えないことで次第に時代から取り残されていく。それまでの映画界は彼女の美貌が約束事だったのに、映画界のルールが変わったから彼女の居場所は失われてしまった。ちょっと違う話かもしれないが、文章を書くとき、そういうことを考えている。

それはともかく、練習問題。

 

練習問題2
一段落~一ページ(三○○~七○○文字)で、句読点のない語りを執筆すること(段落などほかの区切りも使用禁止)

 

 目の前にはずらりと並べられたチョコボールの小さな箱たちが壮観でいちごにピーナツにキャラメルに色とりどりのそれらが隙間なくつまったようすはさながら上質なチェック柄の織物に見えないこともなくそこから一箱抜き出してみるとあの見慣れたキョロちゃんの二つの目がこちらを向いていて視線を感じつつビニール包装を指先で少しずつめくっていき最後までピッと剥がれたところでいちご味特有のあの甘ったるい香りが鼻孔をくすぐることとなったのでふと手を止める一瞬の緊張のあと意を決してくちばしをゆっくりと押し上げたその瞬間向かいに座っていたあなたがにやっと笑うのでそこで金のエンゼルも銀のエンゼルもいなかったことがわかってしまいネタバレやめろよ~と少し困ったような声色になるよう調整して言ってから確かに裏側をみるとそこはただ真っ黄色の地があるだけでまだ始まったばかりだと気を取り直してまあこれだけあるしねと答えるとあなたがふふんと鼻を鳴らすのでそれからは二人で夢中になってエンゼルを狩ることになるがやっぱりなかなか見つからないと思った矢先あなたが声をあげたので見るとそこには金のエンゼルがにっこりと微笑んでいて七箱目で見つけたのはけっこう運が良いんじゃないかと自慢げなのがちょっと悔しくまた手当たり次第次々にチョコボールたちに手をかけるも外れ外れ外れ外れ外れ外れ外れ外れ外れ外れるうちに全然ダメじゃんと笑われても手を止めないで探し続けてようやく銀のエンゼルが一匹だけ見つかったらあと四匹だぞ~とあなたが他人事のように煽るのがおかしくて絶対これ全部食べる時のこと考えてないでしょとひたすら開封し続け外れ外れ外れ外れ外れ外れ外れ外れ外れ外れ外れ外れ外れなんだか次はいけるような気がする外れ次こそエンゼルだと思う外れ全然出ないな外れ甘い匂いでちょっと酔ってきたかも外れ外れ外れわたしってもしかして運が悪いのかな金あ

 

第二章所感:

難しいですね。最初は「」や?を使っていたが、もしかしてそれらも問題文にある禁止事項の「ほかの区切り」に分類されるのか?という疑問が生じ、書き直した。

論評時の反省や話し合いでは「区切りのない言葉の流れがどれくらいテーマとかみ合ったか」「語りとしてかたちになっているか」を見よと書かれているが、こんなもんどうとでも言えてしまいますしね…とちょっと思う。チョコボールを開けるのなんて一瞬の作業だし、当たりか外れか見分けるのも一瞬で終わるし。句読点を入れてしまうと逆にちょっとゆったりしてもちゃもちゃするんじゃないかな、と。そういうことにしようかな。まあ、読みにくいことに変わりはないですが。森見登美彦の地の文ではあんまりそんな印象なかったような気もするが、四畳半神話大系とかのアニメでの語りってなんかあんまり区切りを作らないように淡々と進んでいくような気がして、そういう「日常(?)」を一瞬スルーしかけそうになるくらい淀みなく語っていくシュールさってあると思う。ので、そういう効果は出たんじゃないでしょうか(投げやり)。

ただやっぱり「〜ので」「〜しており」みたいな表現は多用してしまうな難しいな、と思った。それ以外でつい使っちゃうなと思ったのは、語りの温度は変えずに視点を変えるやつ。冒頭とかはまんまそれで、カメラでどこを抜くかをシームレスに変えていくことで読みにくさをできるだけ減らそうと努力している痕跡が、ある。

あと、突然文章から句読点が完全消滅したらびっくりするだろうと思うので、作品のなかでやるとしたら、完全に句読点をなくすというよりは使用する頻度に緩急をつけて、という感じの運用なのかもしれない。普通に読んでたら突然句読点が完全消滅する文章、ちょっと読んでみたいが相当難しそう。

文体の舵をとれ第一章

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』を長らく積んでいたので、そろそろやらなきゃと思い進捗をブログで更新していこうと思う。

正直、一人でやるのは厳しいなーと思う。モチベーションの問題もあるが、複数人でやったほうが上達が速そう。コミュニケーションの努力を渋っているので仲間を見つけられず、せめてブログで人目に晒すか〜という魂胆である。

全10章なので一日一つずつ終わらせたら10日で終わるが、そのとおりに行くかはわかりません。時間を置いて何度かやったほうが良いんだろうなという予感がある。

第一章は、「自分の文のひびき」と題されている。

窓の外の景色や机の散らかり具合を見たり、昨日の出来事や誰かが言った変なことを思い出したりした上で、そこからうきうきした文をひとつふたつみっつあたり作ってみるのだ。そうすればだんだんと気分が乗ってくるはずだ。

勇気づけられる文章が載っていたので引用した。第一章の課題は二つあって、確かにそれをやっているうちに筆が乗ってきたような気もする。続きを考えなくていい文章は好き勝手書けて楽しいなあ

はよ本題に入れ。はい。

 

練習問題 問1
一段落~一ページで、声に出して読むための語りの文を書いてみよう。
その際、オノマトペ、頭韻、繰り返し表現、リズムの効果、造語や自作の名称、方言など、ひびきとして効果があるものは何でも好きに使っていい——ただし脚韻や韻律は使用不可。

 

とりあえずで書いてみたのが下記。

 

 夜のとばりがさっさと降りてしまってからが本番でさ、長い階段を登って境内へ入るとすぐ右手、面を被った男がいてね、そいつがペンキ缶に腰掛けてひょうひょう手招きするのよ。子どもらはみなそこへ寄ってって、おはじきやらBB弾やら消しゴムやら、とにかく自分が宝物だと思うものをめいめいに出していく。それがそろったところで男が顔の前に手をやってね、すっと空気が冷える。提灯のあかりが子どもらの顔を順ぐり照らして、それを男がじっと観察してな、そうして頃合いがきたらペンキ缶の裏から発泡スチロールの箱を取り出すんだ。なかから何が出てくると思う? ひよこさ。色とりどりの。カラーひよこって一時期流行ったろ? あれが細々と生き残っていて、いまはこうやってこっそり。子どもらだって馬鹿じゃないから大人に告げ口なんかしない、口の堅いやつだけがそれに参加できるんでね。赤に緑にピンクに水色、紫やメタリックなんて変わり種もいるな。蛍光色のぽんぽんがころころそのへんを歩き回ってピーピーピヨピヨ大騒ぎよ。わきまえてんだな。ここが自分の晴れ舞台だってちゃあんとわかってるんだ。舞台袖にいるときにゃしんと寝静まってんのに、子どもらの前に立った途端、分別をもって騒ぎ出す、ありゃもう自分の美しさを完全に悟ってるんだな。……そんなかに「スパンコール」って特別めだつひよこがいてな、どういう原理だかしらねぇが動くたびにちらちら光るのよ。体の色じたいは風のような銀色でね、子どもらの注目の的で、みんなそのひよこに賭けたがる。あるとき一人の子どもがそのスパンコールの秘密を調べようとしてな、夕闇にまぎれてこっそり男の持ち物を探ったらしい。結局なにも見つけられんまま、男に見つかってそれっきりって話だが。とにかく、その綿毛たちの秘密を探ることは禁忌でね、それをやると末代まで出入り禁止になるって噂だ。

 

ちょっと硬いから方言を入れて書き直してみたのが下記。方言ってずるい。

 

 夜のとばりがさっと降りてからが本番やって、長い階段てんてんのぼってから境内に入るとすぐ右手、面を被った男がおるんよ。そいつがペンキ缶に腰掛けてからひょうひょうち手招きしとうと。子どもらはみんなそこへ寄ってくばってん、おはじきやらBB弾やら消しゴムやら、とにかく自分が宝物ち思うもんをめいめいに出してくと。それがそろったとこで男が顔の前に手をやってからね、一瞬すっと空気が冷える感じがする。提灯のあかりが子どもらの顔を順ぐり照らしてってから、それを男がじーっと観察してな、そんで頃合いがきたなち思たら、ペンキ缶の裏に隠しとった発泡スチロールの箱を取り出すんよ。なかから何が出てくるち思う? ひよこよ。色とりどりの。カラーひよこっち一時期流行ったやろ? あれが細々と生き残っとって、いまはこうやってこっそりやっとるっちゃね。子どもらだって馬鹿やないけん大人に告げ口なんかせん、口の堅いやつだけがそれに参加できるっち触れ込みやけん。赤に緑にピンクに水色、紫やメタリックなんちゅう変わり種もおる。蛍光色のぽんぽんがころころっちそのへんを歩き回ってから、ピーピーピヨピヨ大騒ぎよ。わきまえとるんよね。ここが自分の晴れ舞台やっち、ちゃあんとわかっとるんよ。舞台袖におるときはしんと寝静まっちょるんに、子どもらの前に立った途端、分別をもっていきなり騒ぎ出すんやけん、ありゃもう自分の美しさを完全に悟っとらなできんことやろ。……そんなかに「スパンコール」っち特別めだつひよこがおって、どういう原理やかしらんけど動くたびにちらっちら光っとるんよ。体の色じたいは風みたいな銀色やって、もう子どもらの注目の的やけん、みーんなそのひよこに賭けたがると。あるとき一人の子どもがそのスパンコールの秘密を調べようちして、夕闇にまぎれてこっそり男の持ち物を探ったっち聞く。結局なんも見つけられんまま、男に見つかってそれっきりっちゅう話やけど。とにかく、その綿毛たちの秘密を探ることは禁忌やけん、それやると末代まで出入り禁止になるっちゅう噂よ。

 

この課題、方言禁止にしたほうが良くない? そんなことないか。未だに方言で完結した小説を書いたことはないけど、いつか書いてみたいかもしれない。
また、今度は造語や具体名を入れたもので取り組んでみたいと思った。

 

 

練習問題 問2
一段落くらいで、動きのある出来事をひとつ、もしくは強烈な感情(喜び・恐れ・悲しみなど)を抱いている人物をひとり描写してみよう。文章のリズムや流れで、自分が書いているもののリアリティを演出して体現させてみること。

 

これが難しかった。強烈な感情が自分の中にない可能性がある。「こんなんでいいのか?」と不安が残る。とりあえず二つ書いてみたが、こういうことではないのかもしれない。わからない。

 

 見渡すと、一斉に目玉が飛び込んできた。ダメよ。ここで怖じ気づいてはダメ。しらふになっちゃダメだ。制服の右ポケットに入れてあった台本を出す。その間にも生徒たちの視線は麻里を貫き続けている。ライトが眩しい。暑い。制服の裏側がじんわりと汗ばんで、台本を開く手もおぼつかなくなる。しっかりして! 麻里は折りたたんであった紙を勢いよく開いた。
 ビリッ!
 一瞬何が起こったかわからない。漏れ聞こえる失笑で気がついた。徹夜で書き上げた台本が真っ二つに裂けている。ここで麻里の頭は真っ白になった。こめかみを汗が伝って、その感触が心のざらざらした部分を撫で回していく。目の前にマイクがある。ダメ! 叫びだしたくなるのをこらえる。台本の一文字目が霞む。頭がくらくらして目玉たちが宙を舞った。自分を中心としてぽっかりと開かれた大穴に飲み込まれていくみたいだ。

 

改行したので三段落になっちゃってるしな〜。動きのある出来事と言って大丈夫なのか。もしくは、これを強烈な感情の描写と言えるだろうか。よくわかんね〜。

 

目が文字を追いかけ、右手が勝手に動く。「ああ、友よ。ここが別れの道だ。」「ああ 友よ ここが」左手は決してさぼっているわけではない。右手がさらさらと動くので、紙が引っ張られないよう少しずつ角度を変えながら、右手の動きを繊細に追いかけ紙を押さえている。貧乏揺すりが酷くなってきた。視界が気にならない程度にぐらぐらと揺れている。そのとき、両脚の振動で左手が不随意に紙をずらした。あ。全体止まれ。「別れ」の「れ」の字がぴんと斜めにでっぱっている。見栄えが悪い。

 

もう一個書いた。どういう状況なのか謎。何してるんだ。動きを書けって別に一つ一つの動作をつぶさに書けということではないだろうと思いつつとりあえずキリの良さそうなところまで書いた。強烈な感情、というのがどういうものか分からなくて、どちらも「動きのある出来事」を主眼に置いて書いてしまった。感情苦手なんかもしれん。

 

第一章所感:
・実例一が好きだった。
・感情難しい。向き合うときがきた可能性がある。あるいは向き合わないときっぱり決めてしまうか。

造鳩會『異界觀相vol.2』、文学フリマ東京35(11/20)にて販売

文芸同人サークル・造鳩會の藤井佯です。
来る11月20日(日)文学フリマ東京35にて、造鳩會から文芸誌『異界觀相vol.2』が販売されます。やったあ。

文学フリマ東京35について

bunfree.net↓「造鳩會」のwebカタログ

c.bunfree.net

造鳩會は、第一展示場の「I-26」にいます。
新刊『異界觀相vol.2』と既刊『異界觀相』を販売予定です。セット割引も実施予定。

 

創刊号からより一層パワーアップするべく、今回はテーマを設けました。
それがこちら。

「迷子なのか?」

あなたは迷子ですか? どうですか? 疑問形なのが肝です。

 

各作品の紹介は、Twitterをご覧ください。

ここでは、それぞれの作品の「迷子なのか?」というテーマとの関わりに注目して紹介します。

 

まず小説から。

松樹凛「帰宅」では、塾からなかなか帰ってこない息子と、それを心配する母親との電話のやり取りを中心に話が進みます。通話が途切れ、そして再び繋がるたびに息子はどんどん「帰宅」から遠ざかっていくのです。「本当にそれは現実か?」と疑いたくなるような風景を「実況」する息子と、切迫した様子の母親。「迷子なのか?」その疑問形が物語の終盤暗く影を落とします。

伊東黒雲「歩調たち」では、語り手は散歩をしています。そこに、二足歩行の犬がリードを握り中年男性を連れているのに出くわすのです(書き間違いではありません)。いつもの散歩だったはずが、その男性から「景観と我々」について丁寧な解説を受けたことで、語り手の歩調は平衡感覚を失してしまいます。迷子なのか?いや、迷子だったのか?いいえ、迷子になるのか?と言いたくなるような結末を迎えます。

多賀盛剛「poacher」では、書き手は初めから迷っています。なぜなら、小説のはじまりがどこからになるのか、そのはじまりがどうしてわかるのか、わからなかったからです。明るい部屋の記憶と暗い部屋の記憶をめぐり、書き手は世界を行き来します。真っ直ぐ歩いているのに、第三者から見るとてんでばらばらな足取りに見えることがあります。逆もまた然りです。迷っているように見えても第三者から見ると精密なステッチのような足跡が残されている——それらは、果たして迷子といえるのでしょうか?

藤井佯「わたしはエミューでは、エミューが同時多発的に脱走します。しかし、彼らは逃げているのでしょうか?逃げているとしたら、何から?もし彼らにしかわからない道があったとして、それを辿ることは迷子なのでしょうか?たとえ同じことを繰り返すとしても、その結果が少しずつ違ったなら?自由であることと迷子であることは同じでしょうか?それとも、自由であることから自由になることが迷子なのでしょうか?

灰谷魚「今なら私がもらえます」では、30歳手前の女性二人の関係が描かれます。ある側面から見れば迷子に思える人も、ある側面では迷子ではない。灰谷さんのnoteから引用すると「この複雑怪奇な世の中において、人は迷子であることが普通ではないか? 自分は迷子ではないと信じている人間は、ただ単に一歩も動いていないだけではないか?」——読んでいるうちに、自分の立っている場所が実はずっと前からぐらついていたことに気がつくような、そんな物語です。

漫画。

不死デスク「goodseeing,girl2」では、二人の女子高生の日常が描かれます。しかしその日常は異界でもあります。迷子になるのはなにも人間だけではないということも、わかります。……「迷子なのか?」という問いかけが発生した瞬間に迷子が誕生します。迷子が存在しないときというのは、問いかけや疑問符が存在しない瞬間でもあります。そうした日常の一瞬が、漫画という形式を最大限に活かして表現されています。

詩。

伊東黒雲「題名」では、わたしは遅延しています。迷子というのはなにも、横軸だけのものではありません。時間のなかでも我々は迷子になります。もうないはずの映像のなか、あったはずの未来、わたしは立ち止まりその間にも風景は目まぐるしく移動してゆきます。移動するたびにわたしは時間の狭間で迷子になり、遅れているわたしを巻き戻してわたしがわたしを連れ帰ってゆく、その営みをまなざすひとの詩です。

葦田不見「その男を尾けて幾星霜が流れたろう」では、私は目を喪った男を尾けています。目を喪った男の世界は、私の世界とは幾分異なり、別の道が見えています。男たちが邂逅することでその世界は交感しあい、男と私の立ち位置は交換され続けます。そしてそれを書いているわたしもまた、途方に暮れた迷子なのです。

北上郷夏「代筆詩篇(フォービズム)」では、生まれながらの迷子である私たちについて描かれます。自らの肉体の出処を見失い、僕は僕であることから逃げることができず、それでも魂は輝き続けている。そして、私たちは胎児のころから「?」を持っていたことが静かに突きつけられます。あるいは、鳥の目を以てして文字が惑う様子を視覚的に楽しむこともできるでしょう。

短歌。

小林堂冥「虜の末裔」では、私たちは音のなかで迷子になれることに気付かされます。音のなかで、形のなかで、連想されるイメージのなかで、私たちは心地よく泳ぎます。そういえば、生まれる前は海にいました。地下に造られた巨大帝国のような駅から這い上がって、ひっそりと静まった踊り場を通り過ぎ、改札を通り抜けるとそこには海が。……これはあくまで一つの筋道です。この作品をたどるのに、何番出口を使用するのかは私たちの自由で、どのような迷子になるのかも私たち次第です。

論考。

懶い「顔を上げて、口を閉じて 小石清「半世界」論」では、新興写真の重要人物・小石清の「半世界」について、新しい見方が提示されます。それぞれの写真から、あるいは前作「初夏神経」から、あるいは彼の表現技法から。新しく地図を描く方法は様々です。そして時には、地図の外にも手がかりはあるものです。

エッセイ。

大槻龍之亮「この世界そのものの動きについて書こうとするとき、それはもう、、詩になっちゃっても、、いい、、」では、筆者がわからないことをとことん追究して思索を張り巡らすさまを存分に楽しむことができます。あっちへこっちへ行きつ戻りつしながら、あるときは先人の言葉に耳を傾けながら、己の信じる方向へ進んでゆく。進んで迷子になるのもまた一興で、きっかけが何であれ、迷子になったからにはその状況を楽しむのが肝心です。

 

以上、12作品を豪華に収録した『異界觀相vol.2』。11月20日文学フリマ東京35にて初頒布です。通販の予約も開始しました。こちらは、11月22日以降の発送となります。

それではご唱和ください。せーの

 

「迷子なのか?」

 

 

よろしくお願いします。

↓『異界觀相vol.2』のご購入はこちらから↓

zo-q-kai.booth.pm

↓既刊についてはこちらから↓

zo-q-kai.booth.pm↓既刊の感想記事↓

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同人サークル(任意団体)の口座開設をした

藤井佯です。「造鳩會」という文芸サークルを立ち上げて、年に一度文学フリマで文芸誌を発行しています。

twitter.com活動内容としては非常にシンプルなんですが、年に一度本を出すだけでも様々な事務作業がついて回ります。特に、避けて通れないのがお金関連の話。

1人あるいは2人での活動であれば、記録さえしっかりつけておけばなんとかなるかもしれません。しかし、3人(造鳩會は3人体制です)以上になってくると、個人の口座でサークル関連の取引を行うことに支障が生じ始めます。「個人の明細にサークルでの取引内容が埋もれる」「誰がいくら立替してたか曖昧になってくる」などなど。

この解決策として、「任意団体の口座開設」を行いました。任意団体というのは正確には「人格なき社団」と呼ばれる、法人格のない団体のことです。契約などは個人名義で行う必要がありますが、サークル名義の口座があれば色々捗って良さそうです。本記事では実際にどのような手続きを行ったか記録しておきます。これから任意団体の口座開設を行おうと思っている方、特に同人サークルの方に少しでも役立てばと思います。

また、この記事は「ゆうちょ銀行」での口座開設を想定しています。その他の銀行での口座開設に関しては記載していません。ご了承ください。

 

まずやること

www.jp-bank.japanpost.jp

runway.sweet.coocan.jpゆうちょの公式ページと、この記事を読んでください。いやいや、このブログで全部解説しろよという話なのですが、調べた中では一番詳しい内容でした。まずは、上記のリンク先を読んで手続きの全容を把握するのが良いと思います。♬あいちゃんさん、ありがとう……。

ただし、実際に規約や議事録を作成する段階では、完全に上記のサイトからコピペして楽勝!というわけには行きませんでした。ご覧いただければ分かると思いますが、上記リンク先の文章は、大人数が所属するかっちりとした団体を想定して書かれており、団体を名乗れる最少人数でほそぼそとやっていこうという私たちのような団体には、少々オーバースペックな感じがします。

かといって、その他調べてみてもあまり実のある情報が出てきませんでした。本記事は、自分が手続きを進める際に「こんなちょうどいいハウツー記事があったらよかったのになあ」と思えるようなものを書いたつもりです。そのため、特に小規模サークルを対象として書かれています。また、実際に提出した規約や議事録のテンプレートも公開しました。

手続きは代表が行うことをおすすめします。そもそも、口座に設定する代表者の肩書は「代表」又は「会計担当」でなければならないようです。来店者と代表者が一致していた方が手続きが煩雑でないので、代表が来局しましょう。ちなみに、私の造鳩會での肩書は「代表・会計」となっています。

また、同人サークルで口座を開設しようとしている方は、最低でも一冊は成果物がある状態で申請する必要がありそうです(提出の必要な書類に、活動実績がわかる資料が含まれているため)。以下の記事は、口座開設だけでなくサークルを継続運営していくうえで大切なことについて詳しく記載されていますので、併せておすすめしておきます。

are-club.com

必要な書類について

代表者の居住地の最寄りの郵便局(重要、後述します)に行きましょう。「任意団体の口座開設がしたい」旨を窓口で伝えれば、必要書類の一覧をもらえるかと思います。下図の通り、2022年10月時点で口座開設には審査が必要となっています。平均1ヶ月ほどかかるようです。担当してくださった局員さんいわく「1ヶ月だとまだ早い方ですよ〜」とのことだったので、気長に待ちましょう。私の場合は、10月31日に無事申請を済ませ、審査結果は11月16日に届きました(意外と早くてワロタ)。

用意が必要なものは下記です。

  1. 総合口座利用申込書(郵便局で記入するため事前用意の必要はありません)
  2. 口座に登録する印章
  3. 団体の規約(「代表者の証明」があるもの←重要)
  4. 団体の活動実績がわかる資料
  5. 団体の名簿
  6. 口座に設定する代表者の本人確認書類(運転免許証、マイナンバーカードなど)
  7. 来局者の本人確認書類(代表が手続きを行う場合は必要ありません)
  8. 団体の総会議事録
  9. 団体の収支報告書
  10. 人格なき社団名義の口座開設にあたってのご確認のお願い←郵便局でもらいます
  11. お取引目的等の確認のお願い(人格なき社団のお客さま)←郵便局でもらいます

この中で、事前に準備が必要なのは「3.団体の規約」「4.団体の活動実績がわかる資料」「5.団体の名簿」「8.団体の総会議事録」「9.団体の収支報告書」の5点です。

可能であれば、郵便局に行く前にこれらの書類を用意しておき、窓口の局員さんに一度見てもらうことをおすすめします。あくまで、窓口の局員さんは手続きをしてくれるだけで審査自体は別の場所で実施されますが、局員さんがそれまでにも任意団体の口座開設手続きを担当していた場合、アドバイスをもらえることがあります。局員さんからは「審査基準は私たちにも分からないので、審査の可否についての質問は窓口ではお受けできません」と言われましたが、議事録や活動報告書の内容に関して助言をいただくことができました。

それぞれについて見ていきます。

10.人格なき社団名義の口座開設にあたってのご確認のお願い

なんで10から?と思われそうですが、この書類に「3.団体の規約」を作成するうえで重要なことがすべて書かれているからです。

この書類は、申し込みのあった団体がきちんと団体としての要件を満たしているかどうかを確認するものとなっています。「ご回答」欄に一つでも「いいえ」「あり」があった場合、書類を受け付けてもらうことができません。また、それぞれに関して「規約」または「議事録」に対応する記載がなければいけません。つまり、これらの項目をすべて満たした規約を作成すれば、審査に通る可能性が高まります。

①団体としての組織を備えていますか。
 —役員の選任の規定や慣行がありますか。
(会長1名、副会長◯名、理事◯名、監事◯名 等)

規約に「本会に次の役員を置く。(1)代表1人(2)副代表1人(3)会計1人」などの記載が必要ということです。

②多数決の原則が行われていますか。
 —会長・理事長等の選任、予算・決算の承認等
 総会の決議が多数決による旨が、定められていますか。
 また、実際に行われていますか。

規約にその旨を記載しましょう。また、議事録に「過半数の賛同を得て◯◯が代表に就任した」等の記録があれば、それも活用できます。

③構成員の変更にかかわらず、団体は存続しますか。
 —団体の活動が継続している間に、構成員の加入・脱退が行われることが予定されていますか。(会員の資格・除名の定めがありますか)

規約に、入会する方法の明記(また、原則それが認められる旨)、任意に退会できる旨を記載することが必要となります。また、何を以て会員とするのか記載が必要です。

④代表の選任方法等は、定められていますか。
 —会長・理事長等が団体の代表者であること、代表の選任方法、権限、職務等が規定で定められていますか。

規約に、代表の職務を記載します。また、代表がどのように選出されるのか、また委任について(「この会則に定めのない事項は、総会の議決を経て代表が別に定める」など)を記載しておけば良いでしょう。

⑤総会の運営方法について、定められていますか。
 —総会の開催、時期、決議事項等について規定はありますか。
 実際に総会は開催されていますか。

規約に総会についての章を設けます。基本的に自由ですが、定時総会と臨時総会を設けておくのが良いかと思います。定時総会は年◯回開催で、年度初めに実施する等定めておくなど。また、基本的には「定時総会」の議事録を提出するのが良さそうです。定時総会は「前年度の収支決算報告」「前年度の活動報告」「(任期満了の場合)新役員の選任」などについて話し合う場ということで、そうした要素を議事録に盛り込みやすいですし、規約に書かれた通りに定時総会が開催されていることの裏付けにもなります。(サークル活動で毎回こんなかっちりとした話し合いはしないと思うので、あとづけでこうした要素を記載するという方向で良いのではないでしょうか

⑥財産の管理方法は、定められていますか。
 —収入や会計の承認や報告といった財産管理について、規定はありますか。収支を管理する体制が備わっていますか。

規約に、会計の項目を作りましょう。また、議事録に「前年度の決算について代表から話があって承認されました」的な記載があると良いと思います。ついでに、残余財産の処分についても規約に記載しておくと尚良いかと思います。

⑦団体を脱退する時に、構成員が自分の持分を団体の財産から受け取ることを前提とした規約・習慣はないですか。

「なし」を選びましょう。

⑧規約に、団体の名称は記載されていますか。

個人的には、規約の一番最初に持ってくるのが良いと思います。名称の条を設け「本会は、◯◯と称する」とでも書いておきましょう。

⑨規約に、団体の所在地は記載されていますか。
※ 事務所の所在地ではなく、団体の所在地が必要です。

規約で、事務所をここにしまーすと記載する場合があるのですが、それとは別に団体の所在地を記載する必要があります。これは、代表者の住所にするのがまるいかと思います。「代表者の居住地の最寄りの郵便局」で手続きを、というのはそういうことで、原則として口座開設手続きは団体の所在地の最寄りの郵便局で行ってね、ということになっているようです。規約にそのまま住所を記載します。「本会の所在地は代表宅とする」という書き方もできるようですが、その場合は「会員名簿」などで代表宅の住所が確認できる必要があるようです。

⑩規約に、団体の目的は記載されていますか。

団体の目的、書きましょう。

⑪規約に、代表による記載内容の証明はありますか。
(例) この規約の記載内容について、事実と相違ないことを
    証明します。
    東京都千代田区□−□−□
       代表者 郵貯 太郎  印

これは、規約に直接記載するのではなく、規約を紙にプリントアウトしたあとの話です。規約に事実と相違がないか、代表者の署名と押印が必要です。文言は例の通りで良いと思います。規約の最後のページにボールペンで書きましょう。

⑫規約に、団体の設立年月日は記載されていますか。

記載しましょう。「本会の設立年月日は、◯◯年◯月◯日とする。」

3.団体の規約

前述の要件を盛り込んで作成したものが、こちらになります。適宜活用してください。このテンプレートは、ゆうちょ銀行での人格なき社団名義の口座開設における審査に通過することを確約するものではありません。ご利用はご自身の判断にてお願いします。

docs.google.com

4.団体の活動実績がわかる資料

郵便局に、制作した同人誌をそのまま持っていったら「その本をいつ発行したか、いつイベントに出たかなどがわかる書類の形で…」と言われました。本をそのまま持っていかないほうが良いようです。フォーマットは特にないとのことでしたので、適宜作成しましょう。参考までに、Wordで適当につくった活動報告書を貼っておきます。こんなんで良かったのかはわかりません。

 

5.団体の名簿

簡単なもので良いと思います。団体に3名以上の構成員が存在しているか確認するためのものです。名前・役職・住所などがあると良さそうです。住所は、規約との兼ね合いで代表者の自宅住所を確認する必要がある場合は必須です。役職は、規約で定められた通りの人数で選任されているかを見るために必要かと思います。

8.団体の総会議事録

実際に提出した(のを改変した)ものがこちらです。設立後まだまもなく、設立後に総会を行っていない場合は、設立に関する総会の議事録でも可能とのことです。ただし、議事録自体の提出は必須のようですので、準備しましょう。こちらも特定のフォーマットがないようなのですが、前述したとおり「前年度の収支決算報告」「前年度の活動報告」「(任期満了の場合)新役員の選任」などの要素が盛り込まれていると良さそうです。

ゆうちょ銀行での人格なき社団名義の口座開設にあたっての確認事項では、以下の要件が「規約」あるいは「議事録」のいずれかに含まれていなければいけません。議事録に記載しない内容は規約でカバーすることができますが、念のため規約と議事録両方で団体の要件を満たしておきたいといった場合は、このテンプレートの議事録では不十分ですので、適宜ご自身で下記要件を満たす内容の追加をお願いします。

①団体としての組織を備えている旨の記載(役員の選任についてなど)
②多数決の原則が行われている旨の記載
③構成員の変更に関わらず団体が存続する旨の記載(自由に加入・脱退が行われるかなど)
④代表の選任方法などについての記載
⑤総会の運営方法についての記載
⑥財産の管理方法についての記載

このテンプレートは、ゆうちょ銀行での人格なき社団名義の口座開設における審査に通過することを確約するものではありません。ご利用はご自身の判断にてお願いします。

docs.google.com

9.団体の収支報告書

どんなフォーマットでも良いと思います。設立後間もなく収支報告書がない場合は、「人格なき社団名義の口座開設にあたってのご確認のお願い」の備考欄にその旨を記載することで、提出を省略することもできるようです。

biztemplatelab.comこちらのサイトから適当なファイルをダウンロードして作成しました。

11.お取引目的等の確認のお願い(人格なき社団のお客さま)

このような書類です。埋めます。不明な点がある場合は、郵便局で尋ねながら埋めると良さそうです。

審査結果とその後

10月31日、郵便局に行き書類を提出してきました。マイナンバーカードのコピーを取られたり、利用申込書を記入したり、押印したり。局員が書類を確認してくれて、特に何も言われずそのまま提出することができました。確認や控えの発行にかかったのは一時間弱でした。あとは、審査を通過すれば郵便書留で通帳等が手元に届きます。

 

11月16日、郵便局から簡易書留が届きました。

中には「造鳩會様」と書かれた通帳が!

1ヶ月以上かかると言われていたので、意外と早く届いて驚きました。キャッシュカードの暗証番号の記載された郵送物も一緒に届きました。防犯の観点から、キャッシュカード本体はまた後日届くようです。

というわけで、今回は無事に任意団体の口座開設を行うことができました。ばんざい。

 

以上です。ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

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上記の同人サークル・造鳩會の新刊はこちらです。

こちらの記事もよろしくお願いします。

『Rikka ZINE』感想(※ネタバレあり)

日英2言語の世界SFのZINE『Rikka Zine』の日本語版の感想です。

Rikka Zineについては下記リンクから。

twitter.com

rikka-zine.com

下記ネタバレあります。

第1章 Delivery

千葉集『とりのこされて』

・取り残されて、と鳥のこされての多重ミーニングがかっこいい。飛べないはずの飛脚が飛翔し、崖に取り残されたあの日の兄弟と、日本に取り残されている飛脚たちと。

・何が起こったのかは語られない、何も起こらなかったからこうなったのかもしれない。今より大幅に人口が減っていそうな地球に取り残された人類たち。父から取り残されたように感じていたであろう兄。取り残された地方。

・先生が魅力的。同僚の息子たちを見守る保護者。兄が飛脚の嫌いな点を列挙するところがとても良い。途中から自分の嫌いなところを言い始めてそうなところとか。先生の「君は飛脚のこと大好きですよ」に兄への愛が溢れている。本当に良いシーン。「君たちのことが好きだからじゃないですか」

・日本のまともな地域として、東京、大阪、松本、福岡が挙げられている点が細かいけど好き。松本、なのはやはりライチョウつながりで、そこを拠点に飛脚が発達していったという歴史があるからなのかもしれない。

・「ちかごろの兄は、あのころの話ばかりせがむ。」ここでも、どういった経緯でニューカレドニアに移住することになったのか、兄は重い病気に罹っているのだろうか、など断片的な描写だけで詳細に何があったのか描かれるわけではない。その空白が心地いい。あのころ飛脚に取り残された子ども時代の兄たちを記憶の中で迎えに行く作業。

・「一度は日本の後進性の象徴として明治政府から切り捨てられたはずなのに、意地汚く位置を占めつづけ、文化遺産みたいな面をしているのが嫌い」→この世界での、鵜飼いのような歴史をたどったのかもしれないなと思いをはせていた。

レナン・ベルナルド『時間旅行者の宅配便』橋本輝幸訳

・こんなに短い作品でこんなに自然に情報をつめこめるのかと驚愕した。未来でも労働環境の問題は現代と同じような感じで~という発想の作品は他にもあるかもしれないが、その中心にチップが持ってこられているところ、チップで買うものがペパーミント味のタブレットなところがとてもちょうどいいというか。Uver Eats×時間旅行という時点で完全に正解だし、時またぎ配達員のディテールが本当によく出来ている。

・「気前よくチップを弾んでもらえるのは、まちがったワームホールに身を投じてしまうことよりはるかにまれだ。」←そんな…と思うがありそうな未来だ

・跳ぶことを許されている年が配達員ごとに定められているということ、タイムコインという単位などから、「どのくらいのレンジで過去や未来を知ることができるか」という新しい格差が誕生しているであろうことが短いテキストの中からでもうかがい知れて、今よりは良くなっているかもしれないけど大して今と変わらないとも言える世界の感触がちょうど良い。なんか全部のエピソードやディテールがセンス良い。すごい。

ボストン・ダイナミクス社がまだ存在してるの笑ってしまう。

木海『保護区』橋本輝幸訳

・『時間旅行者の宅配便』が時間の格差なのに対して、『保護区』で描かれる格差は演算能力。格差の拡大は想像しやすくとも、格差の縮小はちょっと想像しがたい。「もちろん下位階層のすべての仕事も同様にアルゴリズム任せに出来るが、演算能力を節約するため、より安価な人間の労働力が採用されがちだった。」
AIの話題の関心度の高さ。やはり全世界的に格差の拡大と、機械と人間の労働の問題はトレンドなんだなと感じる。

・ハヤカワから出ている『いつも「時間がない」あなたに』は、貧すれば鈍ずを証明しようとする本なのだが、実際これを加速させていくとこの世界になるよなと感じた。この格差の話は当然この世界の話でもある。

・「本来、傲慢な彭箬馨がわざわざ彼の名前を覚えているわけがない」←この一文は気になった。あんまり日本語の作家からは出てこない表現だと思う。海外作品だな感じた。何をもってそう感じたのかとつきつめるとよくわからなくなってくるが…。

・「論理的な判断、重要な選択、温故知新といった往々にして軽視されがちな基本能力も鈍くなり、底をつこうとしている。」←この一文も同様に。「温故知新」が軽視されがちな基本能力の一例として挙げられるの、日本ではあんまりないかもなと思い、そうした差異を見ていくのも楽しい。

・演算能力のリソースが有限であればどうなる→一人の人間が異常に演算能力を駆使した結果、周囲のリソースを食ってフリーズやキャッシュの削除、ロールバックを引き起こす、という発想がとても面白い。そしてその演算能力の使い道も人間らしい。

・突然、クソデカ感情BLが始まってびっくりしたのは私だけではないはず。

府屋綾『依然貨物』

・Unexpected Crab~~~~良すぎる。こういう言葉遊び大好き。

・《カニ》処理業者、こういう架空の専門家が出てくるとわくわくする。

・大学生のくだり最高~!いつの時代も大学生はこうであってほしいという願望がある。今まで鈍い色彩で物語が進んでいたところに突然大輪の花がボンと開いた感じで華やかなシーン。バスキ氏の暗黙の許可の出し方も最高。殺伐としたバトルもので主人公たちがつかの間の休暇を味わってわちゃわちゃしているシーンが好きなタイプなので、そういう読み方をしてしまう。アツい。

・最後のタイトルの回収の仕方も綺麗でほれぼれする。

カニ、私のイメージの中ではデカいコンテナがついた8本脚のアルファ・ドッグ。

・脳内でイメージが再生されながら読むタイプだが、この作品はかなり色が鮮やかで見ていて心地よかった。こういうショートムービー観てみたいし、サムネイルはジョーズみたいな感じでカニを吊り下げてるところにみんなでピースしていてほしい。

伊東黒雲『(折々の記・最終回)また会うための方法』

・終了という言葉が本来の意味とは異なる形でずらして使用されており、かなり深刻な事態が起こっているのにどことなくシュールなのが良い。

・折々、違法外殻つくれるのしれっと書かれているけど何者という感じだ。

・妙に実践的な祭りには惹かれるものがある。「先祖たちの情報体が入っていると信じられた二一世紀製のHDDを人の輪の中心に据え置き、そこへ若人たちが自転車を漕いで電気を供給するというのだ。」←ない光景なのにありありと想像できる。

葉ね文庫かと思った

・外殻化によって、死の概念や時間の概念がごっそり変化しているの面白い。それでも変化しないもの、誰かに情報を伝えること、記すという行為について。「今回は会えなかったというだけで、私はまた別のことをやりながら待ち続ければいい。今日会えなければ死ぬということもない。」バイオハザードなんかでは、生存者が別の生存者を見つけるためにひたすら無線ラジオで誰かと交信を試みるみたいな描写がよくあるし、遺跡でくたばる骸骨の前に手記がありどのように死亡していったのかがうかがい知れるという描写もお決まりだが、人間が今はこない誰かを待ち続け、その細い希望を信じて何かを残す姿を見るのってすごく勇気づけられるなと思う。今回は会えなかったというだけで、いつかまた会えるんだよな、そうだよな、と思う。

・オチが愉快。

第2章 Weird

鞍馬アリス『クリムゾン・フラワー』

・「肝心の痛覚を残した子どもが、自分の子どもには痛覚除去の手術を受けさせるなんて事例もあって」絶対あるだろうな。こういうリアリティ好きです。

・最後までクリムゾン・フラワーの正確な姿が一切想像できないの面白い。そういえば切れ痔ってどんな形をしているのかわからない。

・通貨の単位がペインなのは、せめてかつて痛みというものが存在したことを忘れないためなのだろうか。

・痛覚から解放されるくらい進んだ未来なのにどことなく描写が中世ヨーロッパチックなところもギャップがあって面白かった。神父が儲けていたり、宿場で門前払いを食らい続けたり、行商人が馬型アンドロイドで移動していたり。ケガレの概念も自ずと思い起こされる。

・「身体の痛みはなくなったのに、心の痛みは健在だという事実が、いつも皮肉に感じられる。」そうだよなぁとハッとさせられると同時に「でも切れ痔の話なんよなぁ」がやってくるのめちゃくちゃ面白い読書体験だった。

稲田一声『きずひとつないせみのぬけがら』

・上位存在最高!!!!

・すべてが完璧すぎて感想を言うのが難しい。洗練された短編ってこんなに美しいのか、と思った。

・自分が使っている一人称が「私」なので、はじめ地の文に仕組まれた仕掛けに気づかなかった。あまりにも自然だったから。語り手である主人公と早々に同化してしまったんだと思う。だから「急に目の奥が震えたような気がした」からの展開により一層揺さぶられた。

「僕、みんなに余計なことしてたかな」「あー、割とそうかも」「うううう」←かわいいね…

・ゲンロンSF創作講座で提出された梗概を読んだが、今作がさらにパワーアップしていてすごかった。改稿ってこうやるのか…。

阪井マチ『終点の港』

・不思議な読み味。沈んだ島が結局なんだったのか分からないままだからこそ、書き付けの描写が妙に生き生きとしていて映える。

・肛門一派すき

・「わたしたちの生きた記録を誰も知らないのか。」ここにも、人間の「伝える」という願いが出てくる。この書き付けを書いた人物の意図した通りに伝わったかは疑わしいけれど、往々にしてそういうもので、メディアに取り上げられたあとの話題の移り変わりもリアルだった。

・光の正体がアルコールランプだったのも、全然関係ないところで書き付けの真贋への評価が勝手に下げられたような形になって寓話チックで好き。

根谷はやね『悪霊は何キログラムか?』

・ちょうど特殊捜査官の女性バディものが足りていなかったんですよ!ありがとうございます、という気持ちに…

・綺麗に謎が解決されてスッキリするのに、しこりのように大きな謎が残される感じがとても好み。

アメリカのやたらシーズンが続いているドラマでやってほしいやつ。二人で笑い合っている中で不穏なラジオニュースが響き続ける、外は雨、というシチュエーションが完璧な終わり方すぎる。

・喫水線、バラスト水などの謎解きに必要な前提情報がスムーズに展開されていて綺麗だと思った。

第3章 Chosen Family

扉にはハサミの挿絵、Chosen と Familyの間に刃が差し込まれている。編集後記の「クィアがハッピーエンディングを迎える話があまり収録できなかった」という言葉が思い起こされる。

ソハム・グハ『波の上の人生』暴力と破滅の運び手&橋本輝幸共訳

・一番読んでいて辛かった。

・「つまり二人はあえて相手の宗教の概念を交換している。」←アーッ!?

・モーララ、ジョルなどの注釈が非常にありがたかった。これがあるのとないのとでは全然違う。

・インドの身分違いの男性二人の関係、『波の上の人生』と『RRR』で致死量摂取してしまった感じがある。

・書き出しから、ベヒモス、タイタン、ヒュドラ、クールマと立て続けに気持ちの良い比喩を大量に浴びることができて嬉しい。書き出し本当に綺麗だと思う。「まるでベーグムが持っていた、無数の宝石が縫いつけられた豪奢な黒いヴェールみたいです」も大好き。

・婚約指輪よりも素晴らしい贈り物のあとにこんな仕打ちってないよ…。第3章に付けられたchosen familyというタイトルの重みがずしんとくる。

灰都とおり『エリュシオン帰郷譚』

・とても好きだった。ハッピーエンドと躊躇なく言うことは難しいけど、二人が帰れて良かったと素直に思う。

・過去と現在の話が折り重なって綴られていくのが好き。「けれどどれほど多くの世があろうと、そこに住まう「私」が常に同じ「私」なら、なんと恐ろしいことでしょう。」という文章凄すぎる。

・複数の共通項からどうしても『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を思い浮かべる。どちらの展開も好き。

・最後、真那海が光の路で先導してくれるところで、ここでもわたしを連れ出してくれるのは真那海なんだなとしみじみした。(正確には皇女さまですね)

ヴィトーリア・ヴォズニアク『残された者のために』橋本輝幸訳

・読み返したときに泣いてしまった。

・冒頭の温室から花を選ぶシーン、そこからシームレスにバイクに乗った景色に変わり、夜に沈んだバーへ、という光景がとにかく美しい。

モクレンを選んで、抱き締めたりガラスを傾けたりするところ好き。帰るときは、モクレンは重くて帰り道が長く感じることとか。9年経ってまだ鉢が生きていて、窓の重しになっているところとか。

・狙ったみたいに最後の一文だけ改ページされていてすごい。

・ここでも身分違いの恋が出てくる。大いなる旅に徴収されるほどのアマンダと、工場で金属板を生産し続けているルアナ。ドリンク代が払えなくなってバーを退店するところとか、rikka zineに集まった作品に共通して感じる格差の話。

・こんなに会いたいのに!二人が支払わされている代償について思いを馳せてしまう。

笹帽子『幸福は三夜おくれて』

・章の最後にこの作品があって本当に良かった。

・「石を運んでいい距離が五日と定められている理由は、彼らの家族観のおおらかさからすれば、それくらいの距離なら家族でいられるから、ということなのだろう。」

・『残された者たちのために』の再読で涙腺が脆くなっていたからかやっぱりこの作品でも泣いてしまった。

・ピピの「なんでも大丈夫にしてしまう」ところを語り手の視点から描写されたとき、こんなに愛おしい表現になるのか、と心が温かくなる。語り手の窓をばんばん叩く癖もなんか良いですね…。

・いつか5日で移動できる距離がさらに増えたら、コンバスの理論を採用するとどこでも家族でいられる、ピピの理論を採用するともうどこにいたって家族。どちらにしたって、二人は大丈夫なんだなあとなり感涙。

論考

日本橋和徳『天翔ける超巨大宇宙貨物船 アレステア・レナルズ論』

アレステア・レナルズを一作も読んだことがないところにこの論考を読んで、非常に興味をそそられた。

・SFを取り巻くムーブメントについても詳しくなかったので、なるほどそういう流れがあるのかと勉強になった。〈ニュー・スペースオペラ〉もだが、軽く言及されていた〈ニュー・ウィアード〉が個人的に気になった。

・「レナルズの宇宙船は身体の延長線上にある」←面白そ〜!

・"Ascension Day"というタイトルにまず惹かれるのでなんとか訳されてはくれないだろうか(原著を読め!と言われたらそうですね…としか返せないが……)

第4章 Immigration to New Worlds

ロドリーゴ・オルティズ・ヴィニョロ『宛先不明の人々』白川眞訳

・そんなバグ技みたいな…と思ったが全然あり得る話のように思わされたし、協定で「敗戦した惑星の名前を言ってはいけない」とされているところとか、徹底して故郷が破壊される感じが辛かった。現在の世界の状況を鑑みると「面白い話だった!」という一言では済ませられない。

・「ことが終わってようやく仕事から解放されたとき、私は法務局から賞状を受け取った。」←この文から始まる段落が皮肉効いててめちゃくちゃ好きだけど、同じくらいめちゃくちゃ暗い気持ちになる。

・「種族色が強すぎる」←本当に酷い言い草だが、現実世界でも全然あり得るのが…

・語り手が、宛先不明の人々のために尽力したからこそ、期待がかかりそれがやがて失望に変わり、彼らから特段憎まれるの、見たことあるやつだ!とウワーってなった。辛い。

ファン・モガ『スウィート・ソルティ』廣岡孝弥訳

・「つまり私の名前は、生まれてすぐに三つの故郷をそっくりそのまま持つことになったのだ。」

・横浜以外実在する地名が出てこないが、実在しそうな国家だし実際どこかに実在すると思う。

・「この町では次々と懐かしい物がみつかった。」この一文から続く一連の描写が非常にぐっとくる。横浜という土地だからこそのこの味だと思う。

・サラマンダが元気で嬉しい。

・最後の展開がかなり意外。超越的な存在に導かれたものと思っていたが、未来の人類から差し伸べられた手だった。そしてそれを思い返しながらやってきた船を迎える年老いた語り手、という構図めっちゃ綺麗。

・人類は新しい場所でも、懐かしい物を次々と見つけられる強さを持っているだろう、と信じる力をくれるような、優しい終わり方だったと思う。

ジウ・ユカリ・ムラカミ『海が私に手放させたもの』橋本輝幸訳

・リアリティのある描写と、幻想的な風景が奇妙なバランスで混在する作品。

・ここでも横浜港。奇しくも。

・よくやっていた遊びや歌をしるべにして帰る感じがとても良い。「予感がしてシャツを探ると、片方のポケットに明子の札が入っているのがわかった。幸太郎!」この箇所の感嘆符がとても好き。夢かと思っていたものが、もしかすると夢ではないかもしれないと信じられるような証が出てくるシーンが大好物。

・タイトルの『海が私に手放させたもの』、幸太郎の遺体は海に流さなければならなかったし、明子の札も同様に。だが最後には返ってくる。犠牲や代償があまりにも大きいが、その中にあってなお戻ってきたものが家族の札だったという点にしみじみ。

さんかく『新しい星の新しい人々の』

・夜明け前の一番静かな時間のような作品でとても好み。

・「それらは記録に過ぎず、二度と戻ってこない。これから人類が向かう先でも、きっと何の役にも立たない。だが、それらが失われたとわかるのは、記録が残っているからなのだ。誰にも知られなかったなら、失われたことさえ分からないのだ。」

・ネタバレすると言いつつこの話は極力ネタバレしたくないのでうまく書けなくてもどかしいのだが、差し出された手を取るシーンが本当に美しくて好き。

・しかし記録は残り、新しい星の新しい人々もいつかは何かとても大きなものが喪失されたことに気がつくときが来るのかもしれない。「わたしにはわからない。それは彼らが決めることだ。」とある通り、それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。

もといもと『胡瓜より速く、茄子よりやおらに』

・地の文で「さん」付けされているの好き。

・会話のテンポが良い。日常的にありそうな喋りだけど、物語のセリフでもあり、そのバランスがちょうどよくて心地良い。

・「首筋にヒヤリときたものが、風に揺れる会話の切れ端ではないと確認した人はいない。」この一文かっこよすぎる。

・ユーモラスで、短い中にSF要素がきっちり詰め込まれていて、軽快で、読後感が爽やか。トリにふさわしい作品だと思う。

 

shippingというテーマでこれだけ多彩に見せられるのかと驚きがあった。shippingという言葉自体に広がりがあるからこそではあるけど、配置が絶妙でその威力が何倍にも増幅された感じ。物語同士が連関しあって別の何かが立ち現れることがあって、アンソロジーおもしれー!と思った。

造鳩會『異界觀相』感想

造鳩會の藤井佯です。1年越しとなりましたが、造鳩會から発行した『異界觀相』の各作品感想を書いておきます。

ネタバレ全開で行くので、『異界觀相』未読の方は……まあお任せします。

zo-q-kai.booth.pm↑ここから買えますよ。

 

また、11月20日(日)に開催される文学フリマ東京35にて新刊『異界觀相 第二号』を販売予定です。情報解禁までしばらくお待ちください。

フォローしてね。

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-----------以下ネタバレあります-----------

 

表紙

airi maeyamaさんにご依頼した。大変素晴らしいのでフォローを推奨します。
ちなみに、扉の『異界觀相』の字も書いていただいた。
複数案出してくださり、三人とも満場一致でこのイラストに決まった。この表紙に惹かれ手にとってくださった方も多いだろう。感謝してもしきれない。

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巻頭言/伊東黒雲

そもそも、造鳩會(ゾウキュウカイ、と読む)はこの文芸誌を制作するためにつくられた結社である。メンバーの私、藤井佯と伊東黒雲、デザイナーの亜脩はそれぞれ大学時代からの知り合いだ。具体的に言うと、私にとって黒雲さんは同大学同学部の、たしか3学年上の先輩で(なぜか私も留年したうえで黒雲さんと同年に卒業することとなる)、亜脩さんはかつて某大学のジャズバンドに加入していた際の横の繋がりで、黒雲さんと面識があったのだったと記憶している。三人揃って顔を突き合わせたのは、たしか大学近辺のバーでのことだった。当時黒雲さんとも出会って3回目くらいだったはずで、豊富な読書量から裏打ちされた早口で異常な発言の数々から「おかしな面白い人だなぁ」と思っていたし、そこに居合わせた亜脩さんにいたっては着物姿だった。長髪によく似合っていたが、偽の森見が書いた小説の中にいるのかと錯覚した。煙草の煙で髪を燻されながら、ああ、ここにいるのは全員大学の正規ルートのコミュニティから外れた人たちなのだなという月並みな安心感を覚えた。その後、亜脩さんは大学付近で『深夜喫茶マンサルド』を開店する。私たちはそこをアジールとしていた。

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(現在、深夜喫茶マンサルドは中崎町へ移転している。大阪へ行くことがあればぜひ)

そう、巻頭言の話をしようと思ったのに思い出話をしてしまった。コロナ禍が、やはりきっかけだったと思う。亜脩さんは喫茶店をやる前はデザイナーとして働いていて、大学時代から界隈の同人誌のデザインを請け負っていた。webと紙面では異なる部分も多々あるかと思うのだが、亜脩さんはどちらもできる人で、私はいずれ本を出す時にデザインしてくれたらなと常々考えていたのだった(実際、周囲の友人同士で文芸誌を出そうという動きは数年前に発生したことがあり、いくつか原稿は集まっていたようなのだが結局うやむやになってしまった。私はそれが非常に勿体無く感じられたというか、とにかく未練があった)。そんな折に、コロナ禍がやってきて、喫茶店は閉めざるを得なくなり、亜脩さんは暇で死にそうになっていた(人間には暇で死にそうになるタイプと忙しくて死にそうになるタイプとがいる。もちろん限度はある)。これはチャンスだなと思ったので(?)、声を掛けて結成されたのがこのサークルだ。実は文芸誌名の方が先に決まった。『異界觀相』。四角がたくさんあって嬉しいという理由だったかと思う。そのあと、「鳩を造るのはかなり異界觀相度が高い」ということになり、サークル名が造鳩會に決定した。

そんなノリで発足したものだったから、黒雲さんからこの巻頭言が出てきたときに驚いた。何これめっちゃかっこいいじゃんと思った。小説を書く人間なんて例外なく厨二病だから。

全体として、時事に踏み込んだ作品はあまりなかったのだが、巻頭言では「ニューノーマル」「新しい生活様式」というのは私たちにとって異界でしたよね、ということを確認しておきたかった。

結局のところ私たちは、異界が現れる以前の「何か」を十分に掴み取れていないがために、見失いの帰結としての異界をも見失う、ということになるのである。

各執筆者に依頼をする際、「異界へどっぷりと入り込んでしまうのではなく、あくまでそれを観相することに主眼を置いています」という文章とともにご検討いただいた。ではそもそも異界とは何なのか。私たちはその答えを持たない。問いごと書き手に委ねている。異界とは何なのか、觀相するとはどういうことなのか。その答えを様々な枠組み(フレーム)で提示することこそが、この文芸誌の目的である。

よって本誌は己の出自を知らない。

ちなみに、巻頭言の日付はハロウィンで、黒雲さんがふざけていたので私も編集後記でふざけることにした。

 

伊東黒雲『子午線の結び目』

はじめ読んだとき、何が起こったのかすぐには分からなかった。やがて理解が追いついてきて、中盤登場するエッシャーの絵画がずんと効いてきた。Pの胴体がマジで不気味。全ての行動が唐突。P(眼球)の「不愉快だ! わたし抜きでわたしのことが眼の前で進められている! しかもそれにわたしの一部が加担さえしている!」という嘆きには思わず笑ってしまった。かわいそう。
羽と尾の描写だったり、睡眠導入剤が少しばかり溶け出した尿の泡立ちだったり、肛門へ脳を挿入しようとするくだりだったり、とにかく黒雲ワールド全開という感じがする。冒頭の文章がやたら長文なのも迫力だし、そもそもどういう状況やねんという始まり方をするのでPに全く感情移入できないまま見守ることになるが(共感できる方もいるかもしれませんが…寝室中を黒色塗料で塗り固めるな)、動揺した際に定理の証明を試みたりだとか、小説が家に一冊もないだとか、玄関を掃除しろと自分にキレたりだとか、なかなか可愛げがあって良い。
同じことがVにも言えて、即席麺を啜るVのシーンはお気に入り。文中にある通り「パズルのピースを組み上げることより、複数の断片をパズルのピースだと認識することの方が難しい」のだが、すべてを理解したVの手つきはあまりにも鮮やか。ここで再び読者の脳内に遅延が発生する。しかし最後まで読んで「ぱたん」と物語が、本が閉じられるとき、皺を一気に伸ばすようにして、この物語の凄みがガツンと質量を持って脳へ到達する。考えてみると、本を開いた様子と瞼を開いた様子は非常によく似ている。開いた本の向こう側に何者かが潜んでいやしないか、思わず本の喉を凝視する。

 

柊正午『白瀬矗の講演』

実在の人物、白瀬矗の講演録という体で物語は進む。南極探検隊の隊長がその冒険の最中に遭遇した奇妙な出来事について回想する。「上野にて 明治四六年一○月」という表記を見て「あっ」と思う。書き出しがとにかく秀逸。「……犬が死んだので、食べようということになった。」この書き出しで引き込まれない人はいないと思う。情景描写が非常に上手くて、好みだった。

巨大化した光球は白い大地を飲み込み、視界のすべてを輝白の世界へと転じさせる。白い世界はぼんやりと後退し、やがて間もなく世界は輪郭を取り戻した。地平線が現れ、その上には太陽が輝き、雲が漂う。光球は萎み、その筋は氷原の果てへと消えた。

なんて美しいのだろうか。淡々とした文章であるが、南極に強烈な光を放つ光球が落下するさまをありありと想起させる。彼らが遭遇した謎の存在についての描写も最高なのだが、これは(未読の方がもしかしたらいらっしゃるかもしれないので)念のため伏せておく。終わり方も素敵。謎の存在に遭遇しようが、それはそれとして南極探検隊の使命はできるだけ高緯度へ赴き、探検を成功させ、無事に帰還することだ。そして、白瀬矗個人に関して言えば「この手で極軸に日章旗を突き立てる」ことを人生の目的としている。道中謎の存在に遭遇しながらもそれは彼らの運命に直接関わることはなく——そしてその正体は結局謎のままで——南極探検隊はついに南緯八三度五分地点まで到達し、日本国民らの署名を入れた箱を雪原に埋める。そして宣言するのだ。

「この南緯八三五分というところは、われわれが日章旗のもと、日本の領土として占領するものである。この地点に、後日のため、この箱を埋没する」

このくだりが本当に好きだ。なんか、そんなもんだよなと思えて。謎の存在との遭遇は講演で語るくらいには白瀬矗本人の記憶にも強く残っているのだろうし、結局なんだったんだあれ、と幾度も考え込む瞬間があっただろうなと思う。しかし再び南極へ彼が赴いて確認するといったことは現実的に起こりづらいだろうし、彼のその後の人生にそれが絡んでくる可能性は限りなく低い。「結局なんだったんだあれ」で終わるところが、この作品、南極世界や謎の存在の描写をより一層輝かせているのだと思う。

 

灰谷魚『ときめく夢だけ捨てました』

あのさあ。だめです。良すぎる。灰谷魚さんの作品は数年前からずっと追いかけていて、まさか快諾してくれるとは思っていなかったので終始「ぴゃー><」と思いながら編集していた。好きな作家の作品をいの一番に読めるので文芸誌は作ったほうが良いです。灰谷さんの小説は、とにかく登場人物の会話がテンポよくて、生き生きとしていて、ありそうで、とても真似できないなあと平伏してしまう。この『ときめく夢だけ捨てました』も例に違わず女性同士のやりとりが最高。
事故物件でルームシェアすることになった二人の女性の物語なのだが、二人とも嫌いなものが似通っていて、二人で会話していると自動的に毒コミュニケーションをしだすのでかわいい。灰谷さんは、たとえばサブカルの、たとえばインターネットの「嫌」を嫌味なく小説に取り込んでしまうのが非常に上手くて、あれはなかなかできることではないと思う。絶妙なバランス感覚。
そして、二人の日常の影に事故物件らしく死の影が常にちらついているのが不穏で良い。好きな箇所。

翌朝、宇井芽衣はまったくの別人に生まれ変わっていた。

(中略)

ユマはほんの少しの落胆と、大いなる癒しと、深い憐憫と、ひどい気怠さを同時に感じた。呆れ果てていたのかもしれない。果物ナイフで刺し殺してやろうか、という考えも一瞬よぎったほどだ。しかし、これで芽衣に対してようやく対等に向き合えるような気もした。

野村ユマが絶命してから、何が実際に起こったことで、何が起こらなかったことなのかが曖昧になってくる。しかし、野村ユマは現実に存在したし、宇井芽衣も確かに現実に存在した。ユマは、芽衣と同居を解消してから、宇井子子(芽衣の小説家としてのペンネームである)が大作家として躍進するさまを、どのような気持ちで眺めていたのだろうか。知る由もないが、ここでタイトルの『ときめく夢だけ捨てました』が鈍痛を伴って語りかけてくる。

私にとって純粋に青春と呼べる期間は四○○時間ほどだった。これから先は何もない荒野を、私の体だけが走り続けることになる。

 

藤井佯『托卵』

自作のため感想は割愛します。

 

葦田不見『眼にて黙す』

葦田さんの詩は、いつも「眼」「盲いること」に主眼が置かれている。

ほら、眼が合ったでしょう、しらんぷりなどおよしになってください

読み進めていくと本当に眼が合っていたのかかなり疑わしいが、その真偽含めて味わい深い。

「わたくしの眼をあげましょう」と通行人を呼び止める謎の人物。

その眼を、わたくしにも貸してくれませんか

あなたの眼から見えるけしきを少しばかりのぞかせてくれませんか

わたくしの眼に本当に何も映っていないのか確かめたいのです

非常に不気味な申し出なのだが、どことなくユーモラス。眼を取り出して、その眼に何が見えるかを尋ね、何も見えないと言われたら今度は本当に何も見えないのか確かめたいから眼を貸してくれと言う。
参考として記載されている宮沢賢治「眼にて云ふ」にもこのユーモラスさはあって、しかしこちらの場合は、「ゆふべからねむらず血も出つづけ」な死にかけの人物が語り手だ。…語り手なのだが、どことなく自分を客観視しているというか、死にかけなので幽体離脱しかけているというか、とにかく死にかけの自分を他人事のように俯瞰している様子が描かれている。話し言葉で書かれた詩だが実際に口から声を出しているわけではなく(死にかけだから)、タイトル通りこの人物は「眼で語っている」のである。それに対して、葦田さんの詩のタイトルは『眼にて黙す』。おそらくこの怪人物は実際に通行人に話しかけている(通行人すら存在しない可能性については一旦置いておきましょう)。しかしその人物から取り出されてしまった眼はもう語ることはできない。眼は沈黙し続ける。

眼を抜いたところからイメージが血と一緒にがぶがぶ湧いては流れ出て仕方ないのです

これは「眼にて云ふ」の冒頭「だめでせう/とまりませんな/がぶがぶ湧いてゐるですからな」のオマージュだ。同じく「眼にて云ふ」をオマージュした一節。

いまわたくしから見えるのは

きれいな青空と

すきとおった風ばかりですが

あなたの方からみたら

やっぱりずいぶんさんたんたるけしきなのでしょう

しかしここからの展開。その人物は、通行人から何かを教えてもらったのだろう。死んでも文句はない、ありがとうございましたと言って詩は終わる。からっとした爽やかさがあって好きだ。通行人が死にかけの彼に何を伝えたのかは明かされない。別にハッピーエンドというわけでもバッドエンドというわけでもないのに、なぜだか「良かったね」と笑顔になってしまう。良い終わり方だなあと思う。
『眼にて黙す』は小説4篇の直後に始まるのだが、ここでがらっと展開が変わる印象があって、配置も大変気に入っている。この詩を境にして『異界觀相A面』と『異界觀相B面』が切り替わるイメージで掲載順を考えました。

 

多賀盛剛『prism genesis

この連作が提出されたとき編集部が騒然としたのを覚えている。やばいものが送られてきたな、と思ったし、この作品を掲載できることに心が踊った。

したしみないさかみちで、かたむくからだの、まわりもそうで、ほんまっぽい、

したしみない、くるまがはしる、びでおのとちゅうの、ほんまのからだ、

びでおも、しあわせも、へんかなくて、したしみぶかい、ほんまのからだ、

これは冒頭三首だが、このようにして前に出てきた言葉が少しずつ変化しながら繰り返されて歌が紡がれていく。
ここで、prism genesisというタイトルを考えるとき、Fuji Grid TVのVaporwaveなアルバム『Prism Genesis』に行き着く。1980年代の日本のコマーシャル、ジングルなどをサンプリングして仕上げられたアルバムだ。つまりこの連作は、一首一首が互いに干渉しあい、サンプリングしあい、増殖しているのだ。プリズムに通された光が乱反射していくように。多賀さんの短歌に共通する特徴として、ひらがな、そして方言によって記述され、末尾に「、」が穿たれるという点が挙げられると思う。それはこの『prism genesis』でも健在で、歌はあくまで改行によって区切られているだけで、全てつながっている。いや、そうではなく、なんといえば良いのか。区切られてはいる、でも同時に繋がってもいる。「、」によって、改行によって並べられた歌は、歌として存在もしているし、もっと小さな単位でも存在しているし、隣り合うもの同士は共鳴しあっているし、もっといえばすべてが繋がった円環としても存在しているのではないかと思わせられる。
私の好きな歌を切り取ってみた。

しめしあわせた、からだのまま、だれかをいきた、だれかのからだ、

ちなみに、巻頭言の「人は皆、旅するプリズムである。」から始まる段落は、きっとこの多賀さんの短歌からインスパイアされたのだろうと推測しているのだが、黒雲さん、どうでしょうか?

最後に、インターネットに落ちていたFuji Grid TV『Prism Genesis』のリンクを貼っておく。ぜひ、これを聴きながら読み返してみてほしい。

youtu.be

アルドラ『統失日記』

アルドラさんとは以前からFFで、彼が統合失調症を発症する前から幾度かリプライやDMのやりとりをしたことがあった。短歌をつくっているのも知っていたし、普段のツイートも非常に面白いので依頼した。正直なところ短歌で依頼するかどうか直前まで迷ったのだが、アルドラさんがたまに行う「当時の日記には〜〜と書かれていた」というツイートに惹かれ続けていた。日記をつけているという事実自体が私には非常に好ましく思えたし、その日記の内容も(ツイートから察するに)超面白かった。嘘日記でも構わない旨を記載して依頼を送った。そのため提出された原稿の真偽については立ち入るべきではないと考えているが、「はじめに」には「本寄稿文では主に一次史料である日記を中心として取り上げ、それをもとに本稿を書き進めた。読者の理解の助けとするため、一週間ごとに区切り、メモの内容や通帳の記載、ツイート文などを参考にして、まとめていく」とあるので、この日記は限りなく事実に基づいて記述されている旨を申し添えておく。この原稿が、一人でも多くの方に統合失調症という病について知ってもらうきっかけとなれば幸いである。
統合失調症に見られる4つのステージのうち、この日記では前兆期と急性期の経過が記されている。8月頃から、「午前中壁に刺さっていた盗聴器(注、画鋲のこと。)を焼却処分する」「大学の教務から電話がかかってくるが俺の敵なので無視した。教務にメールで俺の個人情報をばらまかないでくれと懇願」と病の兆しが見えている。このあたりは、世間的に認識された統合失調症の典型的な症例であるように感じられる。一週間ごとに病状の進行がまとめられていて、過去の日記を現在時点から見返して副音声のように解説する形式がとられているのが面白い。

9月2日(月)曇

(中略)頭が重く、風邪のような症状が出ていたので店長に電話をかけて今日の夜勤を休めないかと相談するとまだ一日も始まったばかりだし夜には体調がよくなるのではないかと言われ休めなくて(中略)風邪薬と栄養ドリンクをドラッグストアで買って家に戻ると不思議な夢を見た「お前は戦士だ」と言われ北朝鮮中国共産党がお前の能力を買っていると教わって目が覚めると熱は引いていて妙に頭がすっきりしている。店長に夜勤行けますと報告すると次の瞬間には店舗にいた。

この週のまとめ。

9月第一週まとめ

統合失調症の急性期に入る。毛沢東語録の内容は今でもところどころ暗唱できて、急性期と慢性期の筆者が地続きである感覚がして背筋が寒くなる。

統合失調症の当事者から見た世界を知ることができるという点で興味深いというだけでなく、純粋にアルドラさんは非常に文章が上手く、前のめりで読まされてしまう。しかし、私の感じている面白さは非常に悪趣味なものなのではないかという疑問に、目を背けることは出来ない。まず、他人の日記というのはほとんど読む機会を得られないものだ。読まれるために書かれる日記もあるが、基本的にはごくパーソナルなもので、それは誰かの目に触れることを想定されて書かれてはいない。その罪悪感が一つ。そして、明らかに統合失調症の症状由来であると思われる行動を「面白い」と思いながら読んでも良いのかという問題。非常に文章が上手いのでつい「作品」として読んでしまうが、ふと我に返り立ち止まってしまう。私の立場を表明しておくと、どうしても掲載した立場からの言にはなってしまうが、これは限りなく事実に近い記述ではあるものの、かといって「ノンフィクション」として括れるものでもない。月並みな言い方になるがフィクションとノンフィクションの間に属するもの、「日記」としか表現しようのないもの。そして、そうした形式でこそ、この病について語られるべきだと私は考えている。たとえそれが面白かろうが面白くなかろうが、それはまた別問題だ。そして、アルドラさんの日記は、最高に面白い。

 

懶い河獺『落下するレオロジー 山中散生の詩的原理』

この論考に接するまで山中散生という詩人の存在すら知らなかった。インターネットで検索してみても、ヒットする情報はあまりにも少ない。

しかしこれだけの役割を担いながら、彼は瀧口修造のような理論的支柱とはならなかった。それは山中の仕事の重心が主に海外の動向の紹介や文学史的な整理に置かれていたことにも因るだろう。

シュルレアリスムを日本に紹介した主要人物であり、訳者、評者として泥臭い仕事を行い続けてきた山中散生の、その詩人としての顔はいかなるものであったかを暴く。それがこの論考の趣旨である。

まずもって、こんなに良い作品を書く詩人が埋もれていたのかという新鮮な驚きがある。山中散生著・黒沢義輝編『山中散生全詩集』から「対位法」。

とつぜん 巨大な球体が

すざまじい音響を発し

多彩な色をまき散らし

天井をぶち抜いて墜ちて来た

めっちゃ良くないか。懶いさんは、これらの詩から「特に戦前期の山中にとってこうした操作は修辞的な軸となる手法であった。繰り返し上昇と下降、あるいは墜落を出現させることで、重力の働きそのものの滑稽さを明るみに出す」ことを見出す。しかし、山中の感覚は大戦を機に一変する。以下、山中の言。

言語の魔術的使用法として、メタフォルやネオロジズムを不断に使用することは、シュルレアリスムの常套的手段であったが、しかし僕はこういう皴のある言語を駆使しておられないほど、現実はあまりに生々しく、僕の肉体に迫ってきているのだ。

懶いさんの論考はここからがさらに見どころで、詩的言語上の操作が現実に対して敗北したのち、どのように山中が己の詩学を追究していったのかを、作品を丁寧に追いながら看破する。浸食というキーワードが提示された際には思わず膝を打った。粘度の高い流体が境界を浸食していくさま。それらは夢と現実、詩の内容そのものだけでなく、次の文節、次の行へと意味を連関させ、接続していくイメージである……私では到底辿り着けない見方だと思う。

輪郭を欠いた不定形の肉体は、現実の質量、落下も飛行も宙返りもしない質量を思わせる一方で、それが透明化していくことは言葉が出来事の因果関係としての物語から逃れようとすることの象徴として読みたくなる。

パンチラインすぎる。最高。ここで『落下するレオロジー』という痺れるタイトルの意図が明らかとなる。「重力と浸食」、これらの二軸を暴いてなお、懶いさんはこう続ける。

そのことは、彼がもっぱらこのようなイメージばかりを多用したことを意味しない。それらを変奏、転移させつづけることで、詩人は自らの世界を決して古くさいものにしなかった。

私はこの文が非常に気に入っている。この二文に、今まで見過ごされがちだった一人の詩人への包み込むような愛を感じるのは私だけではないはずだ。

 

大槻龍之亮『わからなさの只中へ突き進んでいくこと、おれはそれを詩だと思っている』

なんだこのタイトルは。提出された論考を見て、あまりにも良くて爆笑した。なにせ冒頭が「ある日わからなくなった。」から始まる。

ある日わからなくなった。何がわからなくなったのか。それもよくわからなかった。とにかく、この世界にいることそのもののわからなさ、といえばいいのか。

「目の前の世界のわからなさから、そのわからなさの彼方へ向かう、そのやり方、道程を描きたいと考えている」と大槻さんは言う。そうするとすかさず「わからなさの彼方って何?」と質問が飛んでくる。ここからなんと大槻さん×2の質疑応答が始まる(!)。「」の応酬だ。そして、質疑応答はこのようにして続く。

「僕もどうしたらいいんだろうって思う。でも、そんなときに、言葉や世界に対してよくわかんないって感じに対して、向かうためのやり方があるんじゃないかなって考えている」「そのやり方って、何?」「詩」「詩?」「そう、詩」「詩ってあのポエム?」「そう、まあ、その感触で呼ばれるところのポエムと、僕の考えている詩はちょっと違う気もするんだけど」「まあ、その違いってのがよくわからないんだけど、ってうか、そもそも詩って何?」

ここから引用される「詩」が独特で、しかし非常に得心のいくチョイスで面白い。まず引用されるのは、なんと、滝沢カレンのある日のInstagramである。

 
 
 
 
 
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www.instagram.com確かにこれは「詩だ」と感じる。でも何を以て?確かに私はこれを「詩じゃん」と感じることができる。しかしwhyを突きつけられると返答に窮してしまう。たしかに、なぜなのだろう……。大槻さんはここからさらにわからなさの只中へ突き進んでいく。彼の考えはこうだ。「「私」がいる「世界」そのものについて思っていること、考えていること、その底にある前提を崩していく状況」がこの文章に存在することで「詩である」と感じたのではないか、と。そしてヘレン・ケラーの世界について語りは進む。加速が止まらん。

(中略)いわば、「私」と「世界」への関係が結ばれる一つの瞬間。(中略)そして、これが自身の感覚から、世界を捉えなおし繋がってゆく、詩が、言葉が、「私」と「世界」への回路になることの原初的なできごとではないかと、私は思うのだ。

なんて熱量のこもった文章だろうか。

いつだって、ものごとは起こり続けている。その様々な形態のなかで起こりつづけていることと連絡していくために、おれはひとつの回路として詩を考えているんだ。この世界にある恒常的な不安定さの最中に向かっていく、というか、すでにその只中にいることに気づいていく。それが大事なんだ。

感想なので好き放題言うが、読み味がまるっきりサン・テグジュペリ星の王子さま』である。ちなみに「詩論を書いてほしい」という依頼だった。大槻さんはその漠然とした依頼から「そもそも詩とはなんだろうか」ということをひたすら真っ直ぐと突き詰めてくれたのだ。伝えたいことはタイトルに全部書いてあった、大事なことは全部ここにあったんだ……。編集部にこの原稿が届いたとき、「絶対これを最後に持ってきたい」と話し合ったのを覚えている。何よりもこの文章の持つ強烈なパワーを最後に浴びてから、この本を閉じてほしいと思った。大槻さんの文章には、意図していようがしていなかろうが、人を勇気づける力が備わっていると思う。それは紛れもなく、大槻さん自身が先陣を切ってわからなさの只中へ突き進んでいく、詩のような人だからだ。

 

編集後記/藤井佯

この本が編集部の手を離れ、羽ばたき、この本をめくる指をとまり木として羽を休め、鮮やかな羽と妖しい囀りで誰かを魅了することを願っている。

超願ってます。

念のため、もう一度貼っておきます。

zo-q-kai.booth.pm

(もしあなたがまだ『異界觀相』を未読で)ここまで読んで「面白いな」と感じてくれたのであれば、ぜひ本誌を手にとってみてほしいです。

(もしあなたが『異界觀相』を既に購入していたら)ありがとうございます。よかったら感想を「#異界觀相」で教えてください。「觀」の字が旧字体で変換しにくくてごめんなさい。

11月に新刊を発行予定です。人が殺せる仕上がりになりそうです。とにかく提出された原稿の圧がすごいです。楽しみにお待ちください。

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。