コインランドリーで失踪

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造鳩會『異界觀相vol.2』、文学フリマ東京35(11/20)にて販売

文芸同人サークル・造鳩會の藤井佯です。
来る11月20日(日)文学フリマ東京35にて、造鳩會から文芸誌『異界觀相vol.2』が販売されます。やったあ。

文学フリマ東京35について

bunfree.net↓「造鳩會」のwebカタログ

c.bunfree.net

造鳩會は、第一展示場の「I-26」にいます。
新刊『異界觀相vol.2』と既刊『異界觀相』を販売予定です。セット割引も実施予定。

 

創刊号からより一層パワーアップするべく、今回はテーマを設けました。
それがこちら。

「迷子なのか?」

あなたは迷子ですか? どうですか? 疑問形なのが肝です。

 

各作品の紹介は、Twitterをご覧ください。

ここでは、それぞれの作品の「迷子なのか?」というテーマとの関わりに注目して紹介します。

 

まず小説から。

松樹凛「帰宅」では、塾からなかなか帰ってこない息子と、それを心配する母親との電話のやり取りを中心に話が進みます。通話が途切れ、そして再び繋がるたびに息子はどんどん「帰宅」から遠ざかっていくのです。「本当にそれは現実か?」と疑いたくなるような風景を「実況」する息子と、切迫した様子の母親。「迷子なのか?」その疑問形が物語の終盤暗く影を落とします。

伊東黒雲「歩調たち」では、語り手は散歩をしています。そこに、二足歩行の犬がリードを握り中年男性を連れているのに出くわすのです(書き間違いではありません)。いつもの散歩だったはずが、その男性から「景観と我々」について丁寧な解説を受けたことで、語り手の歩調は平衡感覚を失してしまいます。迷子なのか?いや、迷子だったのか?いいえ、迷子になるのか?と言いたくなるような結末を迎えます。

多賀盛剛「poacher」では、書き手は初めから迷っています。なぜなら、小説のはじまりがどこからになるのか、そのはじまりがどうしてわかるのか、わからなかったからです。明るい部屋の記憶と暗い部屋の記憶をめぐり、書き手は世界を行き来します。真っ直ぐ歩いているのに、第三者から見るとてんでばらばらな足取りに見えることがあります。逆もまた然りです。迷っているように見えても第三者から見ると精密なステッチのような足跡が残されている——それらは、果たして迷子といえるのでしょうか?

藤井佯「わたしはエミューでは、エミューが同時多発的に脱走します。しかし、彼らは逃げているのでしょうか?逃げているとしたら、何から?もし彼らにしかわからない道があったとして、それを辿ることは迷子なのでしょうか?たとえ同じことを繰り返すとしても、その結果が少しずつ違ったなら?自由であることと迷子であることは同じでしょうか?それとも、自由であることから自由になることが迷子なのでしょうか?

灰谷魚「今なら私がもらえます」では、30歳手前の女性二人の関係が描かれます。ある側面から見れば迷子に思える人も、ある側面では迷子ではない。灰谷さんのnoteから引用すると「この複雑怪奇な世の中において、人は迷子であることが普通ではないか? 自分は迷子ではないと信じている人間は、ただ単に一歩も動いていないだけではないか?」——読んでいるうちに、自分の立っている場所が実はずっと前からぐらついていたことに気がつくような、そんな物語です。

漫画。

不死デスク「goodseeing,girl2」では、二人の女子高生の日常が描かれます。しかしその日常は異界でもあります。迷子になるのはなにも人間だけではないということも、わかります。……「迷子なのか?」という問いかけが発生した瞬間に迷子が誕生します。迷子が存在しないときというのは、問いかけや疑問符が存在しない瞬間でもあります。そうした日常の一瞬が、漫画という形式を最大限に活かして表現されています。

詩。

伊東黒雲「題名」では、わたしは遅延しています。迷子というのはなにも、横軸だけのものではありません。時間のなかでも我々は迷子になります。もうないはずの映像のなか、あったはずの未来、わたしは立ち止まりその間にも風景は目まぐるしく移動してゆきます。移動するたびにわたしは時間の狭間で迷子になり、遅れているわたしを巻き戻してわたしがわたしを連れ帰ってゆく、その営みをまなざすひとの詩です。

葦田不見「その男を尾けて幾星霜が流れたろう」では、私は目を喪った男を尾けています。目を喪った男の世界は、私の世界とは幾分異なり、別の道が見えています。男たちが邂逅することでその世界は交感しあい、男と私の立ち位置は交換され続けます。そしてそれを書いているわたしもまた、途方に暮れた迷子なのです。

北上郷夏「代筆詩篇(フォービズム)」では、生まれながらの迷子である私たちについて描かれます。自らの肉体の出処を見失い、僕は僕であることから逃げることができず、それでも魂は輝き続けている。そして、私たちは胎児のころから「?」を持っていたことが静かに突きつけられます。あるいは、鳥の目を以てして文字が惑う様子を視覚的に楽しむこともできるでしょう。

短歌。

小林堂冥「虜の末裔」では、私たちは音のなかで迷子になれることに気付かされます。音のなかで、形のなかで、連想されるイメージのなかで、私たちは心地よく泳ぎます。そういえば、生まれる前は海にいました。地下に造られた巨大帝国のような駅から這い上がって、ひっそりと静まった踊り場を通り過ぎ、改札を通り抜けるとそこには海が。……これはあくまで一つの筋道です。この作品をたどるのに、何番出口を使用するのかは私たちの自由で、どのような迷子になるのかも私たち次第です。

論考。

懶い「顔を上げて、口を閉じて 小石清「半世界」論」では、新興写真の重要人物・小石清の「半世界」について、新しい見方が提示されます。それぞれの写真から、あるいは前作「初夏神経」から、あるいは彼の表現技法から。新しく地図を描く方法は様々です。そして時には、地図の外にも手がかりはあるものです。

エッセイ。

大槻龍之亮「この世界そのものの動きについて書こうとするとき、それはもう、、詩になっちゃっても、、いい、、」では、筆者がわからないことをとことん追究して思索を張り巡らすさまを存分に楽しむことができます。あっちへこっちへ行きつ戻りつしながら、あるときは先人の言葉に耳を傾けながら、己の信じる方向へ進んでゆく。進んで迷子になるのもまた一興で、きっかけが何であれ、迷子になったからにはその状況を楽しむのが肝心です。

 

以上、12作品を豪華に収録した『異界觀相vol.2』。11月20日文学フリマ東京35にて初頒布です。通販の予約も開始しました。こちらは、11月22日以降の発送となります。

それではご唱和ください。せーの

 

「迷子なのか?」

 

 

よろしくお願いします。

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