コインランドリーで失踪

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文体の舵をとれ第八章

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の第八章を読んだ。視点の切り替えについて。今回は、出題の意図がよく分からなかった。課題に沿ってうまく書けているかも分からない。「論評として」には「切り替えの働き、それで何を得たか(喪ったか)、単一のPOVで語ったなら作品はどう変わっていたか」を話し合うように書かれている。私自身は、無理矢理感が出るのでむやみやたらに切り替えたくないなという月並みなことしか感じられなかったのだが、こういうときに講評会ができると様々な意見が聞けていいんだろうな……と思う。

 

また、今回はル=グウィン先生の意図に沿うかは分からないが、二次創作で課題を行った。漫画をノベライズしてみた。岩浪れんじ『コーポ・ア・コーポ』3巻の、私の大好きな話「第18話——こずえ」から。読めっ!読めっ!読めーっ!

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練習問題⑧声の切り替え
問一:三人称限定視点を素早く切り替えること。六○○~一二○○文字の短い語り。練習問題⑦で作った小品のひとつを用いてもよいし、同種の新しい情景を作り上げてもよい。同じ活動や出来事の関係者が数人必要。
 複数のさまざまな視点人物(語り手含む)を用いて三人称限定で、進行中に切り替えながら物語を綴ること。 空白行の挿入、セクション開始時に括弧入りの名を付すことなど好きな手法を使って、切り替え時に目印をつけること。

 

 次に訪ねたとき、こずえの部屋はもぬけの殻で、古びた金属製のドアには「空室」の掛札があった。その光景が何度もフラッシュバックする。店長の声も遠い。「来月……改装……中日何日か見回りの順番……」店長のマルボロが岡林の方まで流れてくる。居酒屋春一番のバックはいつも煙たい。従業員には喫煙者しかいなかった。見慣れた店内。壁全体が黄ばんでいて、良く言えば大衆向け居酒屋特有の安らぎがあると言えるかもしれないが、今の岡林にはただそれが薄汚く映る。

「はい」
 店長として一通り説明を終え書類を手渡したが、なんだか岡林の様子がいつもと違う。改装中の見回りについて説明していたときにも、どことなく上の空だった。らしくない。岡林は従業員の中では一番頼りになる方で、いずれ副店長として会長に推薦しても良いくらいだと彼は高く評価していた。どこかの銀行で経理でもやっていた方が似合いそうな見た目をしているが、接客もそつなくこなす。いつも真面目で、ミスも少ない。だからこそ、彼は首を突っ込んでみたくなった。面白がっていることは否めない。「なんや岡林具合悪そうやな」岡林がばっと顔を上げこちらを見た。彼は、こういった類の真面目な人間が放心するきっかけなんて、たった一つしかないと決めつけていた。ニヤつきを抑えることができない。
「失恋?」

 岡林は、もうどのような表情を取り繕ったか覚えていない。なぜ図星をついてくる! 動揺を隠しながら軋むオフィスチェアに沈み込む。岡林の脳内。いやわかってたわかってた。ショック受けるなショック受けるなショック受けるなショック受けるなショック受けるな……繰り返し心の中で唱えてみるが、そうすればするほど、こずえのことが脳裏から離れなくなる。しばらく悶々として、気がつくと手に持ったペン先は宙を彷徨ったまま。ふらふらと空中に静止している。
 ——いや! 受ける!!!!
 岡林は思い切りペン先を書類へと落とした。
 
 何の気なしに来店した居酒屋は、こずえが以前働いていた店だった。いや、何の気なしというのは嘘で、少しだけ真里ちゃんに会えるかもと思っていた。だが、今さら会ったとしてどうなるだろう。そう思いつつも、足取りはふらふらと春一番のほうへ向かっていく。しかし、辿り着いた懐かしい場所はちょうど改装工事中だったようで、「お持ち帰りでき〼」の張り紙だけが入口に大きく貼られていた。これでは誰も、もちろん真里ちゃんもいないだろうと少し安堵する。その心の動きに自分でも驚きつつ、こずえは店内に声をかけた。「あのー…お持ち帰り…」
「はい」
と言いながら出てきたのが真里ちゃんだったので、つい「あ」と声を漏らしてしまう。まさかよりによって。それは向こうも同じだったようで、ほぼ同時に「あ」と真理ちゃんが短く発した。
「お前…」と何か言いかけた真里ちゃんを遮って「怒ってる?」と伏し目がちに聞いた。我ながらずるい、とこずえは思った。真里ちゃんはそれにはこたえず、「注文」と短く告げる。やっぱりそうだよね、とこずえはしょんぼりして黙りこくってしまう。しばらく沈黙があったのち、真里ちゃんが観念したかのように「別に怒ってない」と静かに言った。こずえは自分の顔がぱっと晴れたのを自覚した。

 突然のことに、岡林はほとんど思考停止していた。やっとのことで「別に怒ってない」と伝えたが、未練がましく聞こえなかっただろうかと気をもんだ。そう伝えた瞬間のこずえの顔が頭から離れない。あの店内が何ワットも明るくなったかのような。不意に、こずえが岡林の胸元に手を伸ばした。フリーズする。胸ポケットに挿してあったペンが抜き取られていた。こずえは、レジの上に置かれていたメモ帳を目ざとく見つけると、さっさっさと何か走り書きしてレジの上に静かに置いた。彼女の新しい電話番号だった。
「駅の中おる〜」
 そう笑いながら踵を返し去っていく彼女に、岡林は何も声をかけることができなかった。

 

 

問二:薄氷
 六○○~二○○○文字で、あえて読者に対する明確な目印なく、視点人物のPOVを数回切り替えながら、さきほどと同じ物語か同種の新しい物語を書くこと。
 もちろん、問一で書いたものから〈目的〉を取り除くだけでも問二に取り組めるわけだが、それではあまり勉強にならない。今回の「薄氷」では、別の語りの技術と、おそらく別の語りそのものが必要になってくる。今回はどうやら一見、三人称限定視点だけを使っているようでいて、実は潜入型の作者で書かれている、という結果になりがちのようだ。まさに薄氷の課題で、しかも下の海にはまってしまうと深い。

 

 真理ちゃんは優しかった。だから逃げた。
 次に真里ちゃんがこずえの家を訪ねてきたときには、部屋はもうもぬけの殻だろう。ドアには「空室」の札が掛かっていて、きっと真里ちゃんはしばらく呆然とその前に突っ立っているに違いない。真理ちゃんは表情が乏しいけど、それでも感情の機微が分かりやすかった。
「来月から三ヶ月改装入るから」という店長の言葉に、岡林は「はい」と上の空で返事をした。「これ中日何日か見回りの順番とヘルプ先な」と書類を手渡される。無言で受け取り書類を眺めるも、肝心の中身は何も頭に入ってこない。「なんや岡林具合悪そうやな」と言われ、顔を上げる。そんなに分かりやすく表情に出ているのだろうか。店長は顎に手を当て、タバコの先端でこちらを指差した。
「失恋?」
 なぜよりによって! 岡林は動揺を隠しながらキィ……と古びたオフィスチェアに沈んだ。いやわかってたわかってた。こずえがいつか目の前からいなくなることは。だからショック受けるなショック受けるなショック受けるなショック受けるなショック受けるなショック受けるな。言い聞かせてみるのだが、そうすればするほどこずえのことが頭から離れない。気がつくと、右手はペンを握ったまま空中で静止しており、岡林はそこでふっと力を抜いた。ため息を吐く。
 ——いや! 受ける!!!!
 岡林は脳内に絶叫を響かせた。
 あれからしばらくが経った。あれから、というのは働いていた居酒屋を辞めて、真里ちゃんのもとから去ってしばらく。こずえは久々にやってきた街で、吸い寄せられるように居酒屋春一番——彼女の元職場であり、彼女の元恋人が働いている——へ向かっていた。改装工事があったのか、少し店内が小綺麗になっている。「お持ち帰りでき〼」の張り紙がでかでかと貼り出されているのを見つけ、扉を開けた。もしかしたら真里ちゃんがいるかも、という期待はあったのかもしれない。だが、今さら会ってどうなるというのか。
「あのー…お持ち帰り…」
 店の奥へ声をかける。「はい」と出てきた人影を見て、こずえはつい「あ」と短い叫びを上げた。それは向こうも同じで、岡林はやってきた客の姿を認め「あ」とつい声を漏らしてしまう。
「お前…」と言ってから、何を続けようとしたのかが分からなくなる。そんな岡林の声に、こずえが「怒ってる?」と被せてきた。岡林はしばらく黙っていたが、目を合わせないようにして「注文」とだけ短く答えた。しかし、こずえに勝つことはできない。しゅんとした彼女を見ているとどうにもならなくて、つい「別に怒ってない」と言わされてしまう。
 それを聞いて、こずえは安堵した。自分がそう言わせてしまったとしても、今の自分にはそのひとことが必要だったのだ、と思った。こずえは真理ちゃんの胸元にあるペンを抜き取った。レジの上にあったメモ帳に、さらさらと新しい電話番号を書く。昔の連絡先は全部消してしまったが、真里ちゃんとなら、という思いが止められなかった。
「駅の中おる〜」と伝え、こずえは用事を済ますことなく退店した。真理ちゃんの表情は、よく見えなかった。

 

今回はどうやら一見、三人称限定視点だけを使っているようでいて、実は潜入型の作者で書かれている、という結果になりがちのようだ。

自分がこれに陥っていないか自分では判別がつかん!