コインランドリーで失踪

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文体の舵をとれ第七章

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の第七章を読んだ。オギャー! 今までで一番疲れた。視点(Point of View)についての話。それぞれの視点を例付きで解説してくれているのでありがたい。課題を一度こなしただけでは、複数種類の視点を使いこなすことは難しそうだ。そもそも、普段自分がどの視点を使って書いているかすら分からない。おそらく三人称限定視点が多い。次が一人称。あまり意識して使いこなせている気がせず、今回の課題は一番「やったぞ」感があった。

 

練習問題⑦ 視点(POV)
 四○○~七○○文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。何でも好きなものでいいが、〈複数の人物が何かをしている〉ことが必要だ(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。出来事は必ずしも大事でなくてよい(別にそうしても構わない)。ただし、スーパーマーケットでカートがぶつかるだけにしても、机を囲んで家族の役割分担について口げんかが起こるにしても、ささいな街中のアクシデントにしても、何かしらが起こる(起こる、に傍点)必要がある。
 今回のPOV用練習問題では、会話文をほとんど(あるいはまったく)使わないようにすること。登場人物が話していると、その会話でPOVが裏に隠れてしまい、練習問題のねらいである声の掘り下げができなくなってしまう。

 

会話文をほとんど使うな、とのことだったが、普通に使ってしまった。まあ良いでしょう。

 

問一:ふたつの声
①単独のPOVでその短い物語を語ること。視点人物は出来事の関係者で――老人、子ども、ネコ、何でもいい。三人称限定視点を用いよう。
②別の関係者ひとりのPOVで、その物語を語り直すこと。用いるのは再び、三人称限定視点だ。

 

①語り手:由比
 由比は早くも後悔していたが、後ろをついてくる男は痩せた野良犬のような気配があって、どうにも放っておけない。今さら「やっぱりなしで」とも言いづらい。声を掛けたのは由比の方からだったので、ここで約束を反故にするのは、ただ傍観するよりもよけい情がないように思える。そうこうしているうちに大家の住む平屋が見えてきた。由比の住むアパートは大家の屋敷の隣にあって、仕切りといえば椿や柿や檸檬の木立だけだった。大家にとっては、アパートも自分の土地なのだから当然と言えば当然かもしれないが、由比の部屋の庭にも頻繁にやってきてはせっせと庭仕事をしている。由比も、大家と親しくしておくぶんには損することはないという下心もあって、大家が庭にやってきた折には茶をふるまうなど関係は良好である。
 だいぶ日も落ちていたが、まだ大家は外にいた。皺のある手で鋏を握り、庭の木々を剪定している。こちらに気付いたのか手を止めこちらを振り向いた。
「ほう、客人かね」
 珍しいものを見たというように目を細める。男も立ち止まる。
「夕餉にお呼ばれしまして」
 男が柔和な笑みを浮かべ挨拶する。人懐っこさだけで生きてきた人間特有の笑顔だ。そういえば、由比はまだこの男の名前も知らないのだった。
 由比も軽く大家に会釈して、アパートの外廊下へ向かう。しばらくすると「久貴君、」と大家の呼び止める声がする。何事かと振り返ると大家がレジ袋いっぱいの蜜柑を抱えていた。「目白は蜜柑がお好きでしょう」と不可解なことを言うので首をひねっていたが、そういえばどこからかチヨチヨピヨピヨと鳥の鳴き声がする。蜜柑はありがたくいただいた。
 
②語り手:大家(坂元)
 日も落ちてきたのでそろそろ切り上げようかという頃合いだった。蜜柑の木々はすっかり隆盛を迎え、黄金に輝く実はずっしりと重く、枝はみしみしとしなっている。おや、と坂元は枝の先を見やる。坂元の住む平屋は、大家として管理するアパートと隣り合っているのだが、蜜柑がアパートの軒先にまで奔放に枝を伸ばしていた。風でも吹けば今にも窓硝子を叩きそうな勢いだ。101号室である。あちらも近いうちに手入れしなければ。101号室の住人は、久貴という。今時の大学生にしてはどこか浮世離れしているところがある。同世代の友人を連れているところは見たことがないが、全く世代の異なる坂元とも卒なく関係を築くことのできる様子を好ましく感じていた。そこに、ちょうど久貴が帰ってきた。後ろに男を連れている。年齢は30代半ばぐらいだろうか、くたびれた黒い羽織を着て、髪は枯れ草色。姿勢が悪く、目つきも鋭い。どう見ても「友人」という感じではない。この男は、一体久貴とどういう関係だろうか。不審に思うのを気取られぬよう、話しかける。
「ほう、客人かね」
 男と久貴が足を止めた。久貴が軽く会釈する。男も、それまでの鋭い目つきが嘘であったかのように、ぱっと柔和な笑みを浮かべ、坂元に挨拶した。
「夕餉にお呼ばれしまして」
 垂れ目で、どことなく子犬を思わせる。男の纏う雰囲気が、がらっと人懐っこいものに代わり、坂元は少し面食らう。怪しいことに変わりはないが、悪人と決めてかかるのはよくなかった、というのが声を交わしての印象だった。それにあの――頭の上に――坂元は吹き出すのを堪えるのに必死だった。
 目白がいたのである。男の頭に。そこが自らの家だと主張せんばかりにふっくらと膨れ上がって、目白が三羽、男の頭に乗っていた。どうも、久貴は気がついていないように見える。坂元はすっかり毒気を抜かれてしまった。最初に連れてきた客人があの男というのも、どこか久貴らしいとも思える。そうだ、と坂元は慌てて久貴たちを追いかけた。久貴たちはちょうどアパートの外廊下を歩いているところだった。
「久貴君、」と呼び止める。振り返った久貴に、レジ袋を渡す。中には今日庭で採れた蜜柑が押し合いへし合い詰まっている。「目白は蜜柑がお好きでしょう」久貴はやはり、不可解だという顔をしている。坂元は、その顔を見て少し若返ったような気さえした。チヨチヨピヨピヨと、目白が鳴いている。

 

 

問二:遠隔型の語り手
 遠隔型の語り手、〈壁にとまったハエ〉のPOVを用いて、同じ物語を綴ること。
 
 男が二人、夕暮れのなか歩いている。黒髪の、これといって特徴のない大学生のあとを、三十代半ばほどの男性がついていく。彼はくたびれた羽織を着て、髪は枯れ草色。姿勢が悪く、鋭い目つきで周囲を見回している。彼の頭には、目白が三羽乗っている。目白たちはぎゅうぎゅうと互いに押し合いへし合いしながら彼の髪の中にすっぽりと収まっており、男もそれについて別段気にする様子はない。二人は、豪勢な庭のある平屋の前に差し掛かる。庭には老人がおり、皴のある手で鋏を握り、蜜柑の木々を剪定していた。老人が二人に気がつく。老人は学生の後ろをちらりと見やると、挨拶した。
「ほう、客人かね」
 老人はにこやかに語りかける。学生と老人は既知の関係のようで、学生の方も彼に会釈を返した。目白を乗せた男は、学生とともに立ち止まり、老人の方を向くとぱっと柔和な笑みを浮かべた。
「夕餉にお呼ばれしまして」
 男の垂れ目がさらにつり下がった。老人は少し背を仰け反らせる。老人の目は、男の頭上に留まった目白たちに釘付けになっている。学生と男が老人と別れ、隣のアパートへ入っていった。平屋の庭とアパートを遮るものは木立だけで、老人の剪定していた蜜柑の木々に至っては、アパートの部屋の窓硝子にまで枝が届きそうな勢いである。老人はしばらく二人を見送っていたが、おもむろにレジ袋を取りに行き、軒先の籠に積んであった蜜柑を詰め始めた。採れたてで、まだ葉や枝の残るものもあった。勝手を知った足取りで、老人はアパートの外廊下へ急いだ。
「久貴君、」
 久貴、と呼ばれた学生は足を止め振り返った。老人が蜜柑の詰まったレジ袋を彼に手渡した。「目白は蜜柑がお好きでしょう」と老人が言うのを、怪訝な顔で見ている。チヨチヨピヨピヨと、目白の鳴き声がする。

 

 

問三:傍観の語り手
 元のものに、そこにいながら関係者ではない、単なる傍観者・見物人になる登場人物がいない場合は、ここでそうした登場人物を追加してもいい。その人物の声で、一人称か三人称を用い、同じ物語を綴ること。

 

語り手:男・一人称
 ……路端で空腹のあまり座り込んでいたところを、「よかったら食べに来ますか」と見ず知らずの若い男に誘われ、彼の家まで上がることになった。日は暮れかけで、生まれつき夜目が効きづらいので自ずと目を細めてしまう。男の素性は分からないが、確かこの付近に大学があっただろうから、そこの学生だと見当をつける。何にせよ、こんな怪しい男を家に上げるなんて、心配になるほどお人好しである。細い路地を曲がり続け、どこまで歩くのだろうか、来た道を戻れるだろうかと不安になってきたところで、彼が立ち止まった。豪勢な庭を持つ平屋の前で、まさかこの家がと思ったがそうではないらしい。庭仕事をしていた老人が声を掛けてきた。
「ほう、客人かね」
 どうやら二人は既知の間柄らしい。老人が俺を訝しんでいるが、それを露骨に出さないように取り繕っているのが分かる。善良な人間だと感じる。そうだ、俺も挨拶をしておかなければ。親切な人間の心象を損ねるようなことはしたくない。
「夕餉にお呼ばれしまして」
 にっこりと笑顔をつくる。表情筋は毎日動かしておくに限る。こちとらこの図々しさでこれまで生きてきたのだ。飯をご馳走してくれたのは、実はこの学生が初めてではない。人の善意でこれまで生活してきたと言っても過言ではない。老人の警戒が解けたのが分かった。そして、明らかに笑いを堪えている。目白に気づいたのだろう。俺の頭には常に何らかの鳥が居座っている。これはもう、そういうものなのだから仕方がない。むしろ、この学生が未だに目白に気が付かないのが驚きだ。
 学生の家は、平屋の隣のアパートだった。よく見ると、庭が地続きになっている。さっきのは大家さんだったか、と推測する。
 アパートの暗い外廊下を歩いていると、「久貴君、」と先ほどの老人がこちらを呼んでいる。振り返ると、レジ袋いっぱいに蜜柑を詰めて、老人が追いかけてきていた。そうか、こいつの名前は久貴というのか。そういえば、お互いに自己紹介すらまだだった。久貴が、老人から蜜柑を受け取る。「目白は蜜柑がお好きでしょう」と老人が耳打ちしているのが聞こえたが、久貴はやはり何のことやらという顔をしている。老人の思いがけない気遣いをありがたく思いつつ、俺も老人に頭を下げた。先ほどから、チヨチヨピヨピヨと頭の上で目白がうるさいが、久貴はまだ気づかないようだ。こいつ、なかなか面白いかもしれない。

 

 

問四:潜入型の作者
 潜入型の作者のPOVを用いて、同じ物語か新しい物語を綴ること。
 問四では、全体を二~三ページ(二○○○字ほど)に引き延ばす必要が出てくるかもしれない。文脈を作って、引き延ばせるものを見つけ、そのあとを続けないといけなくなる場合もあるだろう。遠隔型の作者は最小限の量に抑えられても、潜入型の作者には、なかを動き回るだけの時間と空間がかなり必要になってくる。
 元の物語のままではその声に不向きである場合、感情面・道徳面でも入り込める語りたい物語を見つけることだ。事実に基づいた真実でなければならない、ということではない(事実なら、わざわざ自伝の様式から出た上で、仮構の様式である潜入型作者の声に入り込むことになってしまう)。また、自分の物語りを用いて、くどくどと語れということでもない。真意としては、自分の惹かれるものについての物語りであるべきだ、ということである。

 

 夕暮れの小道を、学生と身分不詳の男が歩いていた。学生の方は黒髪の、これといって特徴のない若い男だった。名前を由比久貴といった。由比は、早くも男をつれてきたことを後悔しつつあったが、飢えた子犬のような目をする男をどうにも放っておけなかったのである。男は、路端で空腹のあまり座り込んでいた。くたびれた黒い羽織を着て、髪は枯れ草色をしていた。姿勢は悪く、長い足を所在なさげに放り出していた。
 由比の唯一の特技は自炊だった。大学に入ったは良いものの、何事もなく淡々と日常は過ぎ去っていき、友達が一切できないまま一年が過ぎてしまった。その一年で、自炊の腕だけがめきめきと上達していった。一人の食卓というのは、丁度良い量を作るのが難しい。忙しい時など、作りすぎた料理や買いすぎた食材を腐らせてしまうことはしばしばあった。そうした事情が、おそらく由比のなかで無意識に引っかかっていたのだろう。おまけに極度のお人好しでもあったから、ついその怪しげな男に声を掛けてしまったのだ。「よかったら食べに来ますか」と。
 家を目指し、複雑に込み入った路地を次々と曲がる。男は由比にぴったりついて歩いているが、特にここまで二人の間で会話はない。男は由比の歩く複雑な道筋に戸惑うように周囲を忙しなく見回していた。次の道を右に曲がれば由比の家までもうすぐだ。その手前に、由比の住むアパートの大家が住んでいる。立派な庭付きの平屋だ。広大な庭に、平屋がついていると言ったほうが適切かもしれない。今の時期などは、蜜柑の木々がすっかり隆盛を迎え、黄金に輝く実はずっしりと重く、枝はみしみしとしなるほどだった。庭とアパートを遮るものといえば、椿や柿や檸檬の木々だけで、由比も大家も互いの敷地内を自由に出入りしていた。由比が部屋でくつろいでいると、大家がおもむろに由比の庭の木々を手入れし始めるなんてこともあり、そうしたとき由比は必ず茶を出してもてなすのであった。今どきの学生としては珍しく、由比は目上の人間にあまり物怖じせず、良好な関係を築くことが得意だった。そのため大家からは特別好かれていた。この日も大家は庭の手入れをしていた。彼は蜜柑の剪定をしているときに、101号室——由比の部屋である——の窓硝子に蜜柑の枝が掛かりそうなのを発見した。また由比の庭に手入れに行かねば、と年老いた老人は思案する。庭いじりの他の、数少ない老人の楽しみでもあった。そこへちょうど、由比が帰ってきた。
 大家は訝しんだ。由比が客人をつれてきたことはこれまで一度もなかった。老婆心ながらに、果たして同年代の友人がいるのだろうかと心配になるほど、めっきり彼の交友関係は掴めないのである。そこへ初めて連れてきたのがくたびれた怪しい男だったもので、大家は反応に困った。彼には、男がどうしても「由比の友人」であるようには見えなかったのである。
「ほう、客人かね」
 大家は由比へにこやかに語りかけるも、その視線は男の方を向いていた。男もそれに気がついたようで、はっと目を開き、次の瞬間には柔和な笑顔を浮かべた。男はこうした目線には慣れっこであったが、不信感を露骨に表情に出さない人間は善良な部類であると考えていた。
「夕餉にお呼ばれしまして」
 男は人懐っこい笑みで会釈した。老人は、会釈した男を見て一瞬のけぞり、そして笑みを堪えるのに必死になった。男の頭上に、目白が乗っていたのである。彼の頭には、可愛らしい目白が三羽いた。ぎゅうぎゅうと互いに押し合いへし合いしながら仲良く彼の髪の中に収まっている。老人には何が何やらさっぱり分からなかったが、この奇人が思っていたほど悪い人間ではないのだろうと直感した。いや、頭に鳥を乗せているような男は不審者であることに変わりはないのだが。由比が最初に連れてきた客人であるという「らしさ」があって、すっかりと毒気を抜かれてしまったのである。
 由比は目白には気づいていないようで、大家に会釈してアパートの方へと歩いていった。目白を乗せた男が後を追う。大家は、しばし二人を見送っていたが、おもむろにレジ袋を取りに行き、縁側の籠に積んであった蜜柑を詰め始めた。まだ葉や枝が残る、今日収穫したばかりの蜜柑である。ずっしりと一つ一つが重たく、レジ袋の中はぎゅうぎゅうと、あの目白たちのように膨らんだ。彼は二人を追って、アパートの外廊下まで急いだ。「久貴君、」と呼び止める。由比が何事かと振り返ると、老人はレジ袋を手渡した。「目白は蜜柑がお好きでしょう」と老人が由比に耳打ちする。由比は、なんのことかわからず首をひねった。男には老人の言ったことが聞こえたようで、再びにこやかに会釈した。大家が必死に笑いを堪えるのを面白がっている節がある。大家は大家で、なぜ由比が未だに目白に気づかないのか不思議でならない。前々から由比のことを浮世離れしていると思っていたが、それが今日確信に変わりつつあった。
 チヨチヨピヨピヨと、目白が鳴いていた。

 


追加問題
 問一について、三人称限定ではなく一人称で、別の物語りを声にしてみよう。
 もしくは、事件や事故の物語を二回語ってみること。一回目は遠隔型の作者か取材・報道風の声、二回目は事件・事故の当事者の視点から。
 あまり好みではない様式や声があって、その苦手な理由を見つけたい気持ちが少しでもあるなら、おそらく再度それに取り組んだほうがいい(ちょっと食べてみたらタピオカが好きになることもあったりするのだから、ね)。

 

由比・一人称
 僕は早くも後悔しつつあった。そりゃ、「よかったら食べに来ますか」と誘ったのは僕の方だったが、すぐに迂闊だったかもしれないと思い直した。今さら「やっぱりなしで」とも言いづらい。後ろをついてくる男は、痩せた野良犬のような気配があって、どうにも放っておけなかった。ここで約束を反故にするのはただ傍観しているよりも余計たちが悪い気がして、結局「何をつくろうか」と興味は献立の方へと移ってゆく。そうこうしているうちに、日は落ちかけ、ようやく大家の住む平屋が見えてきた。路地を曲がるとすぐ平屋の青い屋根が見えるのだが、その奥、アパートの101号室が僕の部屋である。庭つきの物件だ。内見したときは「庭があるのか」としか思わなかったが、これが意外と風流で良いものである。今の時期は蜜柑がたわわに実って、実の重みで枝がしなるほどだ。大家の家とアパートを遮るものは、椿や柿や檸檬などの木々ばかりで、お互い自由に出入りしていた。先日も、部屋でくつろいでいると庭先に大家がやってきて堂々と庭仕事を始めるので、お茶を振る舞ってもてなした。大家と良好な関係を築いておけば何かと便利かもしれないという下心はあったが、大家は基本的に善良な人で、僕みたいな生活に潤いのない人間からするとその繋がりはありがたかった。
 今日も、大家は庭先で木々を弄っていた。皴のある手で丁寧に剪定鋏を持ち、蜜柑の木に向き合っている。しばらくして、こちらに気づき振り向いた。
「ほう、客人かね」
 大家が珍しいものを見たとでも言いたげに目を細める。後ろを歩いていた男も立ち止まった。
「夕餉にお呼ばれしまして」
 男が意外なほど柔和な笑みを浮かべたので驚いた。不審者を連れているなどと思われないよう気を遣ってくれたのかもしれない。それにしても、人懐っこさだけで生きてきた人間特有の笑顔だ。
 大家に会釈して、アパートの方へ向かった。そういえば、まだこの男の名前も知らないのだった。向こうも僕の名前を知らない。なんだか不思議な日だなと思いつつ、ポケットをまさぐり鍵を手に取る。しばらくして、「久喜君、」と大家の呼び止める声がした。何事かと振り返ると大家がレジ袋いっぱいの蜜柑を抱えていた。「目白は蜜柑がお好きでしょう」などと不可解なことを言うので首をひねったが、そういえばどこからかチヨチヨピヨピヨと鳥の鳴き声がするような気もする。蜜柑はありがたくいただき、男を六畳一間の部屋へ招いた。

 

 

遠隔型の語り手、が普段やらない書き方で一番難しかった。結局、老人が大家であるという情報を入れ込む隙を見つけられなかった。書き分けることで、どの情報を誰が知らないのか、を整理する頭の体操になったと思う。疲れているとうっかり、語り手の知る由もない情報を書いてしまいそうなので気をつけねばなと思った。潜入型の作者も難しかった……。情報量は増やせるが、話が脱線する感じがあって、御するのが困難。あとは、作者自身の視点を上手く入れられたのか自分では判断できない。視点の選び方をどうすれば良いのか。書き分けられたとして、その物語に一番適した視点をどのように見つければ良いのだろうという点が気になっている。第七章は読書案内が豊富なので、読んでみようかなと思った。