コインランドリーで失踪

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文体の舵をとれ第十章

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の第十章を読んだ。焦点と軌道経路。

もし自分で自己と自我を、自分の願いや意見を、心中のくだらないことを、邪魔にならないよう何もかも追い出した上で、物語の焦点を見つけ出し、物語の流れに従ってゆけたのなら、きっと物語がおのずから語り出す。

 本書で話してきたあらゆることは、物語に自らを語らせるための準備に関わり合うはずのものだ。技術を得ることも、技巧を知ることも。それがあれば、魔法の船がやってきたときにも、そこに乗り込んで舵がとれよう——その船の行きたいところへ、その船の行くべきところへ向けて。

最終章ということで、まとめの章。何か描写を詰め込むにしろ、もしくは跳躍を用いるにしろ、その中心には物語の核がなければならない。その核に沿って運行することができれば、その経路そのものが物語になる。最後の練習問題のタイトルには思わず笑ってしまった。そうですよね、と言うほかない。

 

 

練習問題⑩むごい仕打ちでもやらねばならぬ
 ここまでの練習問題に対する自分の答案のなかから、長めの語り(八○○字以上のもの)をひとつ選び、切り詰めて半分にしよう。
合うものが答案に見当たらない場合は、これまでに自分が書いた語りの文章で八○○~二○○○文字のものを見つくろい、このむごい仕打ちを加えよう。
 あちこちをちょっとずつ切り刻むとか、ある箇所だけを切り残すとかごっそり切り取るとか、そういうことではない(確かに部分的には残るけれども)。字数を数えてその半分にまとめた上で、具体的な描写を概略に置き換えたりせず、〈とにかく〉なんて語も使わずに、語りを明快なまま、印象的なところもあざやかなままに保て、ということだ。
 作品内にセリフがあるなら、長い発言や長い会話は同様に容赦なく半分に切り詰めよう。

 

第三回の課題の文章を半分に切り詰める。

 

目標650字

……ミスタードーナツに行列ができていた。レジが壊れてしまったのだという。「三十分ですって!?」と老婦人の金切り声。店員が「最善をつくしているのですが……」と深々と頭を下げたものの、一瞬で蔓延した「こりゃあかんわ」という空気は晴れない。客の行動は早く、我先にとトレーを返却してはそそくさと退店していった。あとには、子連れ客くらいしか残らない。子どもらは普段と何かが異なるということだけが察せられるようで、心なしかわくわくしているようにも見える。先に席取りを行う。腰掛けると隣で子連れ客が困り果て顔を見合わせている。
「じゃあ、埼京線に乗ってミスド食べに行くのと、メトロに乗ってパン食べに行くのと、どっちがいい?」
 よく分からない二択をつきつけられた息子は「なぜ移動せにゃならんのですか?」とでも言いたげだ。不服そうな面持ちで、頑なに席から動こうとしない。おそらく鉄道好きの子どもだろう、大して好きでない電車でミスドを食べに行くか、好きな電車でパンを食べに行くか(おそらく後者が両親の望む回答だ)、つまり好きな電車に乗っていいからここから離れませんかという交渉である。子どもを納得させるのは大変である。結局、レジの復旧には三十分もかからなかった。隣席でも息子らが無事ドーナツにありついている。わたしは待たされた分を取り返すようにフレンチクルーラーとダブルチョコレートとシュガーレイズド(三つも!)を注文した。(601字)

 

(切り詰め前・第三回の課題回答文)

……店に着くと行列ができていて、わたしは前に並んでいる客に何が起こったか尋ねるはめになったのだが、その客が言うにはレジが壊れてしまったのだというから大変だ、これはドーナツ――言い忘れていたが、店というのはわたしが敬愛してやまないミスタードーナツのことだ――にありつけるのはだいぶん先のことになるだろうと時計を確認しようとしたところ、「三十分ですって!?」と老婦人の金切り声が聞こえたので反射的に顔を上げる……店員が二、三名――うち一人は制服が少し豪華だから偉い奴に違いない――が客に囲まれておろおろしているのが見える、先ほどの老婦人の隣にいた男性が今度は「それまでは会計できないってことですか?」と立て続けに質問を浴びせたのに応え、その(おそらく偉い)店員が「大変申し訳ございません。現在最善をつくしているのですがなかなか復旧のめどが立たず……」と沈痛な面持ちで深々と頭を下げたものの、店内に一瞬で蔓延した「こりゃあかんわ」という空気が晴れる気配はない――それからの客の行動は早く、我先にとカウンターへトレーやトングを返却しては「三十分もかかるんでしたらちょっと……」と言いながら次々そそくさと退店していった――あとには、わたしと、どうしてもドーナツでないとダメなのであろう子連れ客くらいしか残されておらず、子どもたちの方は何が起こっているのかいまいちよくわかっていない様子、普段と何か様子が異なるということだけが察せられるようで、心なしか目がらんらんと輝いているようにも見えないこともない――レジが直るまではどうせ待ち時間で、ドーナツの陳列されたカウンターの前に並ぼうが並ぶまいが大して変わりはないだろうという判断から、わたしは先に店内の席取りを行うこととし、ちょうど良い席に腰掛けるとその隣の席で子連れ客の両親が困ったように顔を見合わせている――「じゃあね、埼京線に乗ってミスド食べに行くのと、メトロに乗ってパン食べに行くのと、どっちかいい?」よく分からない二択を彼の息子に提示しているが、よく分からない二択であることに変わりはないので当の息子は「なぜ既にミスドにいるのに移動せにゃならんのですか?」とでも言いたげな不服そうな面持ちで、どちらとも応えず頑として座席から動こうとしない……おそらく、息子は鉄道好きの子どもに違いない、それで大して好きでない埼京線に乗ってミスドを食べに行くか、それとも彼の好きなメトロに乗ってパンを食べに行くか(おそらくこちらが両親の選択してほしい回答だろう)、つまりミスドを妥協する代わりに好きな電車に乗っていいからここから離れませんかという交渉だったのだろう(息子からすれば、そもそもなぜその二択を選択しなければならないのかに納得できないのだ)、子ども相手に交渉をするのは大変だ……結局、レジの復旧にさほど時間はかからず(三十分は冷静な数字ではなかったようだ)、少ししてから無事にドーナツを購入することができ、その息子らもその場でミスドにありつくことができたのでよかったと思う、わたしは待たされた分を取り返すようにフレンチクルーラーとダブルチョコレートとシュガーレイズド(三つも!)を注文した。(1315字)

 

もともと、第三章のこの課題では「一文で語ること」という縛りがあったので、そのリズムによって冗長な語りになっている。他の回答でやったほうがよかったかも。

 

とりあえず、最後まで漕ぎ着けた。(第四章の二問目だけ未回答)

なんかバッジとか欲しいすね。

 

ずっと積んでいたので達成できてよかったです。個人的には、視点(POV)の第七章が一番参考になりました。

 

文体の舵をとれ第九章

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の第九章を読んだ。語りにおける情報の示し方。会話文のなかでさりげなく情報が提示されたり、情景描写で人となりが説明されたりする。また、これから起こる出来事について語りによってほのめかすこともできる。

正直今回は、少し自己満足になってしまった感が否めない。ガス欠してる感じも。

 

練習問題⑨方向性や癖をつけて語る
問一:A&B
 この課題の目的は、物語を綴りながらふたりの登場人物を会話文だけで提示することだ。
 一~二ページ、会話文だけで執筆すること(会話文は行の途中で改行することが多いので、文字数で示すと誤解のおそれがあるから用いない)。
 脚本のように執筆し、登場人物名としてAとBを用いること。ト書きは不要。登場人物を描写する地の文も要らない。AとBの発言以外は何もなし。その人物たちの素性や人となり、居場所、起きている出来事について読者のわかることは、その発言から得られるものだけだ。
 テーマ案が入り用なら、ふたりの人物をある種の危機的状況に置くといい。たった今ガソリン切れになった車、衝突寸前の宇宙船、心臓発作で治療が必要な老人が実の父だとたった今気づいた医者などなど……

 

A:あ、
B:ん、
A:その、先日はどうも。
B:あ、はい。
A:あれから大丈夫でした?
B:別に、あなたが心配することじゃないでしょ。
A:そうですよね……。
B:……。……はーっ、いや今のはあたしが悪かった。ご心配どうも。
A:すみません。
B:なんで謝るかな……。あんたも道こっちなの?
A:まあ、大学行くところだったんで。あなたもそうでしょう。
B:次から家出るタイミング被すのやめてくださいね。
A:無茶を言う。
B:そういえば何学部だっけ。
A:法。
B:あー。ぽいすね。
A:えっと、あなたは?
B:重野でいいよ。文学部。もしかして講義被ってる?
A:どうでしょうね、一年の必修は取り切ってるし。般教なら一年と二年で被るものもあるかもしれないですけど。
B:ふーん。優秀なんだ。東洋芸術史は?
A:西洋なら。
B:チッ、被ってたら楽だったのに。
A:代返させようとしてます?
B:いいええ。そんなことしたらこの身体に申し訳ないし。生前の梓未は仏像好きの寺社仏閣オタクだったから。授業は真面目に受けてやらないと。
A:……へえ。
B:梓未はまだここにいますからね。誰かさんのお節介のおかげで。
A:その節はまあ、すみませんでした。
B:いいんですよ、托卵は失敗することの方が多いし。そのまま共倒れなんてこともよくあるから。こうして元人格を残したまま孵化できただけでも万々歳だ。
A:生まれるのは嬉しいですか。
B:変な質問。……由比って言ったっけ。人間も鳥も、そのあとのことからしか考えられないものでしょう。
A:それはまあ、そうかもしれませんね。
A:……重野さん。
B:何?
A:お昼空いてます?
B:奢ってくれるなら。
A:一応先輩ですし。
B:持つべきものは奢ってくれる隣人ってね。それじゃあたしこっちなんで。講義終わったら連絡して。

 

自己満足であると言った所以はこの課題で、もともと書きたいなと思っている長編の登場人物たちに会話をさせた。
A:大学二年生法学部の男性、誰に対しても敬語を使う。名字は由比。
B:大学一年生文学部の女性、Aに対してはタメ口で話す。重野梓未という名前。特殊な事情があり、本物のBはほとんど死んだ状態になっている。現在のBは、Bの肉体を持つ別の存在。そうなったきっかけである事件にAは関わっている。
AとBは同じアパートの隣人同士で、この会話はAとBが同時に家を出た瞬間から始まる。
……といった状況なのだが、こんな複雑なのを課題でやる必要は本来ない。ただ、この登場人物たちに話をさせてみたかったので、課題を利用した形。二人が大学生であること、歳上が敬語で、年下がタメで話していることが伝わればそれだけでいいなと思う。


問二:赤の他人になりきる
 四○○~一二○○文字の語りで、少なくとも二名の人物と何かしらの活動や出来事が関わってくるシーンをひとつ執筆すること。
 視点人物はひとり、出来事の関係者となる人物で、使うのは一人称・三人称限定視点のどちらでも可。登場人物の思考と感覚をその人物自身の言葉で読者に伝えること。
 視点人物は(実在・架空問わず)、自分の好みでない人物、意見の異なる人物、嫌悪する人物、自分とまったく異なる感覚の人物のいずれかであること。
 状況は、隣人同士の口論、親戚の訪問、セルフレジで挙動不審な人物など――視点人物がその人らしい行動やその人らしい考えをしているのがわかるものであれば、何でもいい。

 

 家にはまだまだたくさんあったが、全ては運べないので美樹が好きそうなものだけ二、三持ってきた。それと、美樹の好きなブドウ。巨峰の皮を剥きながら両手をべたべたにして食べていた幼い美樹。あの可愛さは忘れられない。もちろん今でも可愛らしい孫であることに変わりはないが、幼い孫の可愛さときたら格別だった。インターホンを押した。
「美樹ちゃん」
 美樹が玄関から顔を出す。「おばあちゃん、早かったなあ」
 続いて娘の早希が奥から覗いた。めざとくブドウを見つけ「あーもうお母さんそんなんええのに」と言いながらパタパタとお茶の用意に引っ込んだ。
「美樹ちゃんこれ」と、花柄のワンピースを籠から取り出す。
 娘の早希が若いころ着ていたワンピースだ。裾の直しくらいであれば私にもできる。着てみてもらって、寸法を測り直そう。美樹の表情が一瞬こわばった気がしたが、しばしばとまばたきをすると目の前には孫の笑顔があった。
「わーおばあちゃんありがとう、えらい可愛らしい柄やんなあ」
「せやろせやろ、お母さんが若い頃えらい気に入っとってなあ、おしいれの整理してたら出てきたさかい、美樹ちゃんにも似合うやろ思てなあ」
 美樹は笑顔を浮かべたまま、うーんとうなっている。
「せや、ブドウありがとうなあ、早速いただこかな」
 私をテーブルに通して、美樹はキッチンに消えた。早希の手伝いに行ったのだろう。よく気が利く。きっと良いお嫁さんになるだろう。私ももう歳だが、せめて美樹の結婚式までは見届けたい。やはり、神前式が良い。神様の前で、愛を誓う美樹が見たい。

 


問三:ほのめかし
 この問題のどちらも、描写文が四○○~一二○○文字が必要である。双方とも、声は潜入型作者か遠隔型作者のいずれかを用いること。視点人物はなし。
①直接触れずに人物描写――ある人物の描写を、その人物が住んだりよく訪れたりしている場所の描写を用いて行うこと。部屋、家、庭や畑、職場、アトリエ、ベッド、何でもいい。(その登場人物はそのとき不在であること)
②語らずに出来事描写――何かの出来事・行為の雰囲気と性質のほのめかしを、それが起こった(またはこれから起こる)場所の描写を用いて行うこと。部屋、屋上、道ばた、公園、風景、何でもいい。(その出来事・行為は作品内では起こらないこと)

①人物
 壁際にうずたかく積み上げられた竹製の鳥かごが西日に照らされる。鳥かごは全て開け放たれ、鳥たちが自在に出入りできるようになっている。電灯には和紙の笠が被せられ、暗い橙の豆電球だけが夜を忘れた木星のように灯っている。天井まで伸びたコードにメジロシジュウカラなど小型の鳥たちが並んで留まり、こちらの様子を伺っていた。鳥たちは、こちらの様子は気にとめつつも、互いの毛繕いに忙しい。部屋の隅には穀物の詰まった袋が乱雑に置かれ、零れた飼料をニワトリたちが啄んでいた。いつもであれば黒い羽織が干してある衣桁は、今は所在なさげにひっそりと部屋の東側に立ち、その柱に色とりどりの南国の鳥たちが羽を休めている。襖を開けると畳の上に敷かれた万年床が顔を覗かせるが、やはりこの部屋にもアヒルや鴨などがペタペタと歩き回っている。だが、決して不衛生というわけではない。鳥はその身体の構造上、任意のタイミングでの排泄が難しいはずだが、部屋に糞などが散乱している様子はなかった。振り返ってダイニングの方を見やると、ちょうど四方から「井」の形に柱が渡されており、その上にフクロウや鷹がじっと佇んでこちらを見つめている。冷蔵庫を開けると冷凍されたねずみの肉やミルワーム。ポタポタ……とシンクの蛇口から水が滴り落ち、その水を求めて雀が小さな舌を伸ばしている。家中からナッツのような香ばしい匂いが漂っているが、これこそがこの部屋にひしめきあう鳥たちの芳香であった。一方で、人間の物は極端に少ない。万年床の隣に数冊積まれた文庫本や、使い古された湯飲みがちゃぶ台にひっそりと置かれているばかりである。鳥のために作られ、鳥に支配された部屋。一通り歩き回ってみての印象である。

 

②出来事
 夕暮れといえど、俄に分厚い雲が空を覆ってしまったので陽は差さない。灰色の雲は、互いが互いをおびき寄せるかのごとく増殖してゆき、その重みに空が音を上げるまでにはあと少しの猶予もないように思えた。日光がなくなった分だけ体感温度が下がったようで、薄手の長袖シャツだけでは少し肌寒い。公園まで差し掛かったが、重力に逆らって噴き上げられた噴水ですら空の重さに耐えかね、いつもより勢いがない。この辺りに住み着いている野良猫が前を横切った。がさがさと揺れる植え込みに目が行き、やがて冷たいものが頭を叩いた。みるみるうちに砂の色が濃く塗り変わっていき、手元の折りたたみ傘では心許ない雨脚の強さ。今が一番酷いときであるとみて木陰でしばらく様子を見るか、強行突破を試みるかとしばし逡巡したのち、公園の一番背の高い木の中に、折りたたみ傘を差して収まった。次の瞬間雷鳴。ほんの短い間だけこの世の色彩を反転させたかのようで、その一瞬の隙を縫って気つけのようにゴロゴロと轟音がやってくる。何度かそれを見届けたのち、灰色の海に沈んだ滑り台の陰に、何か黒いものが蠢いたように見えた。よく見るとそれは人で、黒い羽織はすっかり烏の濡れた羽のようになって、髪からは雫が線になって滴り落ち、それ以上酷くなりようもなかろうに、なんとか天の猛攻を避けようと遊具を傘にしてこの豪雨をやりすごそうとしている。

 

 

これも、情景描写に終始してしまった感じがある。①はある人物(鳥と暮らしている)の部屋、②は雨の中の邂逅(が始まる一歩手前)。疲れとる。読んだとてどんな人物が暮らしているか分かりづらいし。まあ一旦これで。

文体の舵をとれ第八章

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の第八章を読んだ。視点の切り替えについて。今回は、出題の意図がよく分からなかった。課題に沿ってうまく書けているかも分からない。「論評として」には「切り替えの働き、それで何を得たか(喪ったか)、単一のPOVで語ったなら作品はどう変わっていたか」を話し合うように書かれている。私自身は、無理矢理感が出るのでむやみやたらに切り替えたくないなという月並みなことしか感じられなかったのだが、こういうときに講評会ができると様々な意見が聞けていいんだろうな……と思う。

 

また、今回はル=グウィン先生の意図に沿うかは分からないが、二次創作で課題を行った。漫画をノベライズしてみた。岩浪れんじ『コーポ・ア・コーポ』3巻の、私の大好きな話「第18話——こずえ」から。読めっ!読めっ!読めーっ!

www.comic-medu.com

 

 

練習問題⑧声の切り替え
問一:三人称限定視点を素早く切り替えること。六○○~一二○○文字の短い語り。練習問題⑦で作った小品のひとつを用いてもよいし、同種の新しい情景を作り上げてもよい。同じ活動や出来事の関係者が数人必要。
 複数のさまざまな視点人物(語り手含む)を用いて三人称限定で、進行中に切り替えながら物語を綴ること。 空白行の挿入、セクション開始時に括弧入りの名を付すことなど好きな手法を使って、切り替え時に目印をつけること。

 

 次に訪ねたとき、こずえの部屋はもぬけの殻で、古びた金属製のドアには「空室」の掛札があった。その光景が何度もフラッシュバックする。店長の声も遠い。「来月……改装……中日何日か見回りの順番……」店長のマルボロが岡林の方まで流れてくる。居酒屋春一番のバックはいつも煙たい。従業員には喫煙者しかいなかった。見慣れた店内。壁全体が黄ばんでいて、良く言えば大衆向け居酒屋特有の安らぎがあると言えるかもしれないが、今の岡林にはただそれが薄汚く映る。

「はい」
 店長として一通り説明を終え書類を手渡したが、なんだか岡林の様子がいつもと違う。改装中の見回りについて説明していたときにも、どことなく上の空だった。らしくない。岡林は従業員の中では一番頼りになる方で、いずれ副店長として会長に推薦しても良いくらいだと彼は高く評価していた。どこかの銀行で経理でもやっていた方が似合いそうな見た目をしているが、接客もそつなくこなす。いつも真面目で、ミスも少ない。だからこそ、彼は首を突っ込んでみたくなった。面白がっていることは否めない。「なんや岡林具合悪そうやな」岡林がばっと顔を上げこちらを見た。彼は、こういった類の真面目な人間が放心するきっかけなんて、たった一つしかないと決めつけていた。ニヤつきを抑えることができない。
「失恋?」

 岡林は、もうどのような表情を取り繕ったか覚えていない。なぜ図星をついてくる! 動揺を隠しながら軋むオフィスチェアに沈み込む。岡林の脳内。いやわかってたわかってた。ショック受けるなショック受けるなショック受けるなショック受けるなショック受けるな……繰り返し心の中で唱えてみるが、そうすればするほど、こずえのことが脳裏から離れなくなる。しばらく悶々として、気がつくと手に持ったペン先は宙を彷徨ったまま。ふらふらと空中に静止している。
 ——いや! 受ける!!!!
 岡林は思い切りペン先を書類へと落とした。
 
 何の気なしに来店した居酒屋は、こずえが以前働いていた店だった。いや、何の気なしというのは嘘で、少しだけ真里ちゃんに会えるかもと思っていた。だが、今さら会ったとしてどうなるだろう。そう思いつつも、足取りはふらふらと春一番のほうへ向かっていく。しかし、辿り着いた懐かしい場所はちょうど改装工事中だったようで、「お持ち帰りでき〼」の張り紙だけが入口に大きく貼られていた。これでは誰も、もちろん真里ちゃんもいないだろうと少し安堵する。その心の動きに自分でも驚きつつ、こずえは店内に声をかけた。「あのー…お持ち帰り…」
「はい」
と言いながら出てきたのが真里ちゃんだったので、つい「あ」と声を漏らしてしまう。まさかよりによって。それは向こうも同じだったようで、ほぼ同時に「あ」と真理ちゃんが短く発した。
「お前…」と何か言いかけた真里ちゃんを遮って「怒ってる?」と伏し目がちに聞いた。我ながらずるい、とこずえは思った。真里ちゃんはそれにはこたえず、「注文」と短く告げる。やっぱりそうだよね、とこずえはしょんぼりして黙りこくってしまう。しばらく沈黙があったのち、真里ちゃんが観念したかのように「別に怒ってない」と静かに言った。こずえは自分の顔がぱっと晴れたのを自覚した。

 突然のことに、岡林はほとんど思考停止していた。やっとのことで「別に怒ってない」と伝えたが、未練がましく聞こえなかっただろうかと気をもんだ。そう伝えた瞬間のこずえの顔が頭から離れない。あの店内が何ワットも明るくなったかのような。不意に、こずえが岡林の胸元に手を伸ばした。フリーズする。胸ポケットに挿してあったペンが抜き取られていた。こずえは、レジの上に置かれていたメモ帳を目ざとく見つけると、さっさっさと何か走り書きしてレジの上に静かに置いた。彼女の新しい電話番号だった。
「駅の中おる〜」
 そう笑いながら踵を返し去っていく彼女に、岡林は何も声をかけることができなかった。

 

 

問二:薄氷
 六○○~二○○○文字で、あえて読者に対する明確な目印なく、視点人物のPOVを数回切り替えながら、さきほどと同じ物語か同種の新しい物語を書くこと。
 もちろん、問一で書いたものから〈目的〉を取り除くだけでも問二に取り組めるわけだが、それではあまり勉強にならない。今回の「薄氷」では、別の語りの技術と、おそらく別の語りそのものが必要になってくる。今回はどうやら一見、三人称限定視点だけを使っているようでいて、実は潜入型の作者で書かれている、という結果になりがちのようだ。まさに薄氷の課題で、しかも下の海にはまってしまうと深い。

 

 真理ちゃんは優しかった。だから逃げた。
 次に真里ちゃんがこずえの家を訪ねてきたときには、部屋はもうもぬけの殻だろう。ドアには「空室」の札が掛かっていて、きっと真里ちゃんはしばらく呆然とその前に突っ立っているに違いない。真理ちゃんは表情が乏しいけど、それでも感情の機微が分かりやすかった。
「来月から三ヶ月改装入るから」という店長の言葉に、岡林は「はい」と上の空で返事をした。「これ中日何日か見回りの順番とヘルプ先な」と書類を手渡される。無言で受け取り書類を眺めるも、肝心の中身は何も頭に入ってこない。「なんや岡林具合悪そうやな」と言われ、顔を上げる。そんなに分かりやすく表情に出ているのだろうか。店長は顎に手を当て、タバコの先端でこちらを指差した。
「失恋?」
 なぜよりによって! 岡林は動揺を隠しながらキィ……と古びたオフィスチェアに沈んだ。いやわかってたわかってた。こずえがいつか目の前からいなくなることは。だからショック受けるなショック受けるなショック受けるなショック受けるなショック受けるなショック受けるな。言い聞かせてみるのだが、そうすればするほどこずえのことが頭から離れない。気がつくと、右手はペンを握ったまま空中で静止しており、岡林はそこでふっと力を抜いた。ため息を吐く。
 ——いや! 受ける!!!!
 岡林は脳内に絶叫を響かせた。
 あれからしばらくが経った。あれから、というのは働いていた居酒屋を辞めて、真里ちゃんのもとから去ってしばらく。こずえは久々にやってきた街で、吸い寄せられるように居酒屋春一番——彼女の元職場であり、彼女の元恋人が働いている——へ向かっていた。改装工事があったのか、少し店内が小綺麗になっている。「お持ち帰りでき〼」の張り紙がでかでかと貼り出されているのを見つけ、扉を開けた。もしかしたら真里ちゃんがいるかも、という期待はあったのかもしれない。だが、今さら会ってどうなるというのか。
「あのー…お持ち帰り…」
 店の奥へ声をかける。「はい」と出てきた人影を見て、こずえはつい「あ」と短い叫びを上げた。それは向こうも同じで、岡林はやってきた客の姿を認め「あ」とつい声を漏らしてしまう。
「お前…」と言ってから、何を続けようとしたのかが分からなくなる。そんな岡林の声に、こずえが「怒ってる?」と被せてきた。岡林はしばらく黙っていたが、目を合わせないようにして「注文」とだけ短く答えた。しかし、こずえに勝つことはできない。しゅんとした彼女を見ているとどうにもならなくて、つい「別に怒ってない」と言わされてしまう。
 それを聞いて、こずえは安堵した。自分がそう言わせてしまったとしても、今の自分にはそのひとことが必要だったのだ、と思った。こずえは真理ちゃんの胸元にあるペンを抜き取った。レジの上にあったメモ帳に、さらさらと新しい電話番号を書く。昔の連絡先は全部消してしまったが、真里ちゃんとなら、という思いが止められなかった。
「駅の中おる〜」と伝え、こずえは用事を済ますことなく退店した。真理ちゃんの表情は、よく見えなかった。

 

今回はどうやら一見、三人称限定視点だけを使っているようでいて、実は潜入型の作者で書かれている、という結果になりがちのようだ。

自分がこれに陥っていないか自分では判別がつかん!

 

文体の舵をとれ第七章

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の第七章を読んだ。オギャー! 今までで一番疲れた。視点(Point of View)についての話。それぞれの視点を例付きで解説してくれているのでありがたい。課題を一度こなしただけでは、複数種類の視点を使いこなすことは難しそうだ。そもそも、普段自分がどの視点を使って書いているかすら分からない。おそらく三人称限定視点が多い。次が一人称。あまり意識して使いこなせている気がせず、今回の課題は一番「やったぞ」感があった。

 

練習問題⑦ 視点(POV)
 四○○~七○○文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。何でも好きなものでいいが、〈複数の人物が何かをしている〉ことが必要だ(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。出来事は必ずしも大事でなくてよい(別にそうしても構わない)。ただし、スーパーマーケットでカートがぶつかるだけにしても、机を囲んで家族の役割分担について口げんかが起こるにしても、ささいな街中のアクシデントにしても、何かしらが起こる(起こる、に傍点)必要がある。
 今回のPOV用練習問題では、会話文をほとんど(あるいはまったく)使わないようにすること。登場人物が話していると、その会話でPOVが裏に隠れてしまい、練習問題のねらいである声の掘り下げができなくなってしまう。

 

会話文をほとんど使うな、とのことだったが、普通に使ってしまった。まあ良いでしょう。

 

問一:ふたつの声
①単独のPOVでその短い物語を語ること。視点人物は出来事の関係者で――老人、子ども、ネコ、何でもいい。三人称限定視点を用いよう。
②別の関係者ひとりのPOVで、その物語を語り直すこと。用いるのは再び、三人称限定視点だ。

 

①語り手:由比
 由比は早くも後悔していたが、後ろをついてくる男は痩せた野良犬のような気配があって、どうにも放っておけない。今さら「やっぱりなしで」とも言いづらい。声を掛けたのは由比の方からだったので、ここで約束を反故にするのは、ただ傍観するよりもよけい情がないように思える。そうこうしているうちに大家の住む平屋が見えてきた。由比の住むアパートは大家の屋敷の隣にあって、仕切りといえば椿や柿や檸檬の木立だけだった。大家にとっては、アパートも自分の土地なのだから当然と言えば当然かもしれないが、由比の部屋の庭にも頻繁にやってきてはせっせと庭仕事をしている。由比も、大家と親しくしておくぶんには損することはないという下心もあって、大家が庭にやってきた折には茶をふるまうなど関係は良好である。
 だいぶ日も落ちていたが、まだ大家は外にいた。皺のある手で鋏を握り、庭の木々を剪定している。こちらに気付いたのか手を止めこちらを振り向いた。
「ほう、客人かね」
 珍しいものを見たというように目を細める。男も立ち止まる。
「夕餉にお呼ばれしまして」
 男が柔和な笑みを浮かべ挨拶する。人懐っこさだけで生きてきた人間特有の笑顔だ。そういえば、由比はまだこの男の名前も知らないのだった。
 由比も軽く大家に会釈して、アパートの外廊下へ向かう。しばらくすると「久貴君、」と大家の呼び止める声がする。何事かと振り返ると大家がレジ袋いっぱいの蜜柑を抱えていた。「目白は蜜柑がお好きでしょう」と不可解なことを言うので首をひねっていたが、そういえばどこからかチヨチヨピヨピヨと鳥の鳴き声がする。蜜柑はありがたくいただいた。
 
②語り手:大家(坂元)
 日も落ちてきたのでそろそろ切り上げようかという頃合いだった。蜜柑の木々はすっかり隆盛を迎え、黄金に輝く実はずっしりと重く、枝はみしみしとしなっている。おや、と坂元は枝の先を見やる。坂元の住む平屋は、大家として管理するアパートと隣り合っているのだが、蜜柑がアパートの軒先にまで奔放に枝を伸ばしていた。風でも吹けば今にも窓硝子を叩きそうな勢いだ。101号室である。あちらも近いうちに手入れしなければ。101号室の住人は、久貴という。今時の大学生にしてはどこか浮世離れしているところがある。同世代の友人を連れているところは見たことがないが、全く世代の異なる坂元とも卒なく関係を築くことのできる様子を好ましく感じていた。そこに、ちょうど久貴が帰ってきた。後ろに男を連れている。年齢は30代半ばぐらいだろうか、くたびれた黒い羽織を着て、髪は枯れ草色。姿勢が悪く、目つきも鋭い。どう見ても「友人」という感じではない。この男は、一体久貴とどういう関係だろうか。不審に思うのを気取られぬよう、話しかける。
「ほう、客人かね」
 男と久貴が足を止めた。久貴が軽く会釈する。男も、それまでの鋭い目つきが嘘であったかのように、ぱっと柔和な笑みを浮かべ、坂元に挨拶した。
「夕餉にお呼ばれしまして」
 垂れ目で、どことなく子犬を思わせる。男の纏う雰囲気が、がらっと人懐っこいものに代わり、坂元は少し面食らう。怪しいことに変わりはないが、悪人と決めてかかるのはよくなかった、というのが声を交わしての印象だった。それにあの――頭の上に――坂元は吹き出すのを堪えるのに必死だった。
 目白がいたのである。男の頭に。そこが自らの家だと主張せんばかりにふっくらと膨れ上がって、目白が三羽、男の頭に乗っていた。どうも、久貴は気がついていないように見える。坂元はすっかり毒気を抜かれてしまった。最初に連れてきた客人があの男というのも、どこか久貴らしいとも思える。そうだ、と坂元は慌てて久貴たちを追いかけた。久貴たちはちょうどアパートの外廊下を歩いているところだった。
「久貴君、」と呼び止める。振り返った久貴に、レジ袋を渡す。中には今日庭で採れた蜜柑が押し合いへし合い詰まっている。「目白は蜜柑がお好きでしょう」久貴はやはり、不可解だという顔をしている。坂元は、その顔を見て少し若返ったような気さえした。チヨチヨピヨピヨと、目白が鳴いている。

 

 

問二:遠隔型の語り手
 遠隔型の語り手、〈壁にとまったハエ〉のPOVを用いて、同じ物語を綴ること。
 
 男が二人、夕暮れのなか歩いている。黒髪の、これといって特徴のない大学生のあとを、三十代半ばほどの男性がついていく。彼はくたびれた羽織を着て、髪は枯れ草色。姿勢が悪く、鋭い目つきで周囲を見回している。彼の頭には、目白が三羽乗っている。目白たちはぎゅうぎゅうと互いに押し合いへし合いしながら彼の髪の中にすっぽりと収まっており、男もそれについて別段気にする様子はない。二人は、豪勢な庭のある平屋の前に差し掛かる。庭には老人がおり、皴のある手で鋏を握り、蜜柑の木々を剪定していた。老人が二人に気がつく。老人は学生の後ろをちらりと見やると、挨拶した。
「ほう、客人かね」
 老人はにこやかに語りかける。学生と老人は既知の関係のようで、学生の方も彼に会釈を返した。目白を乗せた男は、学生とともに立ち止まり、老人の方を向くとぱっと柔和な笑みを浮かべた。
「夕餉にお呼ばれしまして」
 男の垂れ目がさらにつり下がった。老人は少し背を仰け反らせる。老人の目は、男の頭上に留まった目白たちに釘付けになっている。学生と男が老人と別れ、隣のアパートへ入っていった。平屋の庭とアパートを遮るものは木立だけで、老人の剪定していた蜜柑の木々に至っては、アパートの部屋の窓硝子にまで枝が届きそうな勢いである。老人はしばらく二人を見送っていたが、おもむろにレジ袋を取りに行き、軒先の籠に積んであった蜜柑を詰め始めた。採れたてで、まだ葉や枝の残るものもあった。勝手を知った足取りで、老人はアパートの外廊下へ急いだ。
「久貴君、」
 久貴、と呼ばれた学生は足を止め振り返った。老人が蜜柑の詰まったレジ袋を彼に手渡した。「目白は蜜柑がお好きでしょう」と老人が言うのを、怪訝な顔で見ている。チヨチヨピヨピヨと、目白の鳴き声がする。

 

 

問三:傍観の語り手
 元のものに、そこにいながら関係者ではない、単なる傍観者・見物人になる登場人物がいない場合は、ここでそうした登場人物を追加してもいい。その人物の声で、一人称か三人称を用い、同じ物語を綴ること。

 

語り手:男・一人称
 ……路端で空腹のあまり座り込んでいたところを、「よかったら食べに来ますか」と見ず知らずの若い男に誘われ、彼の家まで上がることになった。日は暮れかけで、生まれつき夜目が効きづらいので自ずと目を細めてしまう。男の素性は分からないが、確かこの付近に大学があっただろうから、そこの学生だと見当をつける。何にせよ、こんな怪しい男を家に上げるなんて、心配になるほどお人好しである。細い路地を曲がり続け、どこまで歩くのだろうか、来た道を戻れるだろうかと不安になってきたところで、彼が立ち止まった。豪勢な庭を持つ平屋の前で、まさかこの家がと思ったがそうではないらしい。庭仕事をしていた老人が声を掛けてきた。
「ほう、客人かね」
 どうやら二人は既知の間柄らしい。老人が俺を訝しんでいるが、それを露骨に出さないように取り繕っているのが分かる。善良な人間だと感じる。そうだ、俺も挨拶をしておかなければ。親切な人間の心象を損ねるようなことはしたくない。
「夕餉にお呼ばれしまして」
 にっこりと笑顔をつくる。表情筋は毎日動かしておくに限る。こちとらこの図々しさでこれまで生きてきたのだ。飯をご馳走してくれたのは、実はこの学生が初めてではない。人の善意でこれまで生活してきたと言っても過言ではない。老人の警戒が解けたのが分かった。そして、明らかに笑いを堪えている。目白に気づいたのだろう。俺の頭には常に何らかの鳥が居座っている。これはもう、そういうものなのだから仕方がない。むしろ、この学生が未だに目白に気が付かないのが驚きだ。
 学生の家は、平屋の隣のアパートだった。よく見ると、庭が地続きになっている。さっきのは大家さんだったか、と推測する。
 アパートの暗い外廊下を歩いていると、「久貴君、」と先ほどの老人がこちらを呼んでいる。振り返ると、レジ袋いっぱいに蜜柑を詰めて、老人が追いかけてきていた。そうか、こいつの名前は久貴というのか。そういえば、お互いに自己紹介すらまだだった。久貴が、老人から蜜柑を受け取る。「目白は蜜柑がお好きでしょう」と老人が耳打ちしているのが聞こえたが、久貴はやはり何のことやらという顔をしている。老人の思いがけない気遣いをありがたく思いつつ、俺も老人に頭を下げた。先ほどから、チヨチヨピヨピヨと頭の上で目白がうるさいが、久貴はまだ気づかないようだ。こいつ、なかなか面白いかもしれない。

 

 

問四:潜入型の作者
 潜入型の作者のPOVを用いて、同じ物語か新しい物語を綴ること。
 問四では、全体を二~三ページ(二○○○字ほど)に引き延ばす必要が出てくるかもしれない。文脈を作って、引き延ばせるものを見つけ、そのあとを続けないといけなくなる場合もあるだろう。遠隔型の作者は最小限の量に抑えられても、潜入型の作者には、なかを動き回るだけの時間と空間がかなり必要になってくる。
 元の物語のままではその声に不向きである場合、感情面・道徳面でも入り込める語りたい物語を見つけることだ。事実に基づいた真実でなければならない、ということではない(事実なら、わざわざ自伝の様式から出た上で、仮構の様式である潜入型作者の声に入り込むことになってしまう)。また、自分の物語りを用いて、くどくどと語れということでもない。真意としては、自分の惹かれるものについての物語りであるべきだ、ということである。

 

 夕暮れの小道を、学生と身分不詳の男が歩いていた。学生の方は黒髪の、これといって特徴のない若い男だった。名前を由比久貴といった。由比は、早くも男をつれてきたことを後悔しつつあったが、飢えた子犬のような目をする男をどうにも放っておけなかったのである。男は、路端で空腹のあまり座り込んでいた。くたびれた黒い羽織を着て、髪は枯れ草色をしていた。姿勢は悪く、長い足を所在なさげに放り出していた。
 由比の唯一の特技は自炊だった。大学に入ったは良いものの、何事もなく淡々と日常は過ぎ去っていき、友達が一切できないまま一年が過ぎてしまった。その一年で、自炊の腕だけがめきめきと上達していった。一人の食卓というのは、丁度良い量を作るのが難しい。忙しい時など、作りすぎた料理や買いすぎた食材を腐らせてしまうことはしばしばあった。そうした事情が、おそらく由比のなかで無意識に引っかかっていたのだろう。おまけに極度のお人好しでもあったから、ついその怪しげな男に声を掛けてしまったのだ。「よかったら食べに来ますか」と。
 家を目指し、複雑に込み入った路地を次々と曲がる。男は由比にぴったりついて歩いているが、特にここまで二人の間で会話はない。男は由比の歩く複雑な道筋に戸惑うように周囲を忙しなく見回していた。次の道を右に曲がれば由比の家までもうすぐだ。その手前に、由比の住むアパートの大家が住んでいる。立派な庭付きの平屋だ。広大な庭に、平屋がついていると言ったほうが適切かもしれない。今の時期などは、蜜柑の木々がすっかり隆盛を迎え、黄金に輝く実はずっしりと重く、枝はみしみしとしなるほどだった。庭とアパートを遮るものといえば、椿や柿や檸檬の木々だけで、由比も大家も互いの敷地内を自由に出入りしていた。由比が部屋でくつろいでいると、大家がおもむろに由比の庭の木々を手入れし始めるなんてこともあり、そうしたとき由比は必ず茶を出してもてなすのであった。今どきの学生としては珍しく、由比は目上の人間にあまり物怖じせず、良好な関係を築くことが得意だった。そのため大家からは特別好かれていた。この日も大家は庭の手入れをしていた。彼は蜜柑の剪定をしているときに、101号室——由比の部屋である——の窓硝子に蜜柑の枝が掛かりそうなのを発見した。また由比の庭に手入れに行かねば、と年老いた老人は思案する。庭いじりの他の、数少ない老人の楽しみでもあった。そこへちょうど、由比が帰ってきた。
 大家は訝しんだ。由比が客人をつれてきたことはこれまで一度もなかった。老婆心ながらに、果たして同年代の友人がいるのだろうかと心配になるほど、めっきり彼の交友関係は掴めないのである。そこへ初めて連れてきたのがくたびれた怪しい男だったもので、大家は反応に困った。彼には、男がどうしても「由比の友人」であるようには見えなかったのである。
「ほう、客人かね」
 大家は由比へにこやかに語りかけるも、その視線は男の方を向いていた。男もそれに気がついたようで、はっと目を開き、次の瞬間には柔和な笑顔を浮かべた。男はこうした目線には慣れっこであったが、不信感を露骨に表情に出さない人間は善良な部類であると考えていた。
「夕餉にお呼ばれしまして」
 男は人懐っこい笑みで会釈した。老人は、会釈した男を見て一瞬のけぞり、そして笑みを堪えるのに必死になった。男の頭上に、目白が乗っていたのである。彼の頭には、可愛らしい目白が三羽いた。ぎゅうぎゅうと互いに押し合いへし合いしながら仲良く彼の髪の中に収まっている。老人には何が何やらさっぱり分からなかったが、この奇人が思っていたほど悪い人間ではないのだろうと直感した。いや、頭に鳥を乗せているような男は不審者であることに変わりはないのだが。由比が最初に連れてきた客人であるという「らしさ」があって、すっかりと毒気を抜かれてしまったのである。
 由比は目白には気づいていないようで、大家に会釈してアパートの方へと歩いていった。目白を乗せた男が後を追う。大家は、しばし二人を見送っていたが、おもむろにレジ袋を取りに行き、縁側の籠に積んであった蜜柑を詰め始めた。まだ葉や枝が残る、今日収穫したばかりの蜜柑である。ずっしりと一つ一つが重たく、レジ袋の中はぎゅうぎゅうと、あの目白たちのように膨らんだ。彼は二人を追って、アパートの外廊下まで急いだ。「久貴君、」と呼び止める。由比が何事かと振り返ると、老人はレジ袋を手渡した。「目白は蜜柑がお好きでしょう」と老人が由比に耳打ちする。由比は、なんのことかわからず首をひねった。男には老人の言ったことが聞こえたようで、再びにこやかに会釈した。大家が必死に笑いを堪えるのを面白がっている節がある。大家は大家で、なぜ由比が未だに目白に気づかないのか不思議でならない。前々から由比のことを浮世離れしていると思っていたが、それが今日確信に変わりつつあった。
 チヨチヨピヨピヨと、目白が鳴いていた。

 


追加問題
 問一について、三人称限定ではなく一人称で、別の物語りを声にしてみよう。
 もしくは、事件や事故の物語を二回語ってみること。一回目は遠隔型の作者か取材・報道風の声、二回目は事件・事故の当事者の視点から。
 あまり好みではない様式や声があって、その苦手な理由を見つけたい気持ちが少しでもあるなら、おそらく再度それに取り組んだほうがいい(ちょっと食べてみたらタピオカが好きになることもあったりするのだから、ね)。

 

由比・一人称
 僕は早くも後悔しつつあった。そりゃ、「よかったら食べに来ますか」と誘ったのは僕の方だったが、すぐに迂闊だったかもしれないと思い直した。今さら「やっぱりなしで」とも言いづらい。後ろをついてくる男は、痩せた野良犬のような気配があって、どうにも放っておけなかった。ここで約束を反故にするのはただ傍観しているよりも余計たちが悪い気がして、結局「何をつくろうか」と興味は献立の方へと移ってゆく。そうこうしているうちに、日は落ちかけ、ようやく大家の住む平屋が見えてきた。路地を曲がるとすぐ平屋の青い屋根が見えるのだが、その奥、アパートの101号室が僕の部屋である。庭つきの物件だ。内見したときは「庭があるのか」としか思わなかったが、これが意外と風流で良いものである。今の時期は蜜柑がたわわに実って、実の重みで枝がしなるほどだ。大家の家とアパートを遮るものは、椿や柿や檸檬などの木々ばかりで、お互い自由に出入りしていた。先日も、部屋でくつろいでいると庭先に大家がやってきて堂々と庭仕事を始めるので、お茶を振る舞ってもてなした。大家と良好な関係を築いておけば何かと便利かもしれないという下心はあったが、大家は基本的に善良な人で、僕みたいな生活に潤いのない人間からするとその繋がりはありがたかった。
 今日も、大家は庭先で木々を弄っていた。皴のある手で丁寧に剪定鋏を持ち、蜜柑の木に向き合っている。しばらくして、こちらに気づき振り向いた。
「ほう、客人かね」
 大家が珍しいものを見たとでも言いたげに目を細める。後ろを歩いていた男も立ち止まった。
「夕餉にお呼ばれしまして」
 男が意外なほど柔和な笑みを浮かべたので驚いた。不審者を連れているなどと思われないよう気を遣ってくれたのかもしれない。それにしても、人懐っこさだけで生きてきた人間特有の笑顔だ。
 大家に会釈して、アパートの方へ向かった。そういえば、まだこの男の名前も知らないのだった。向こうも僕の名前を知らない。なんだか不思議な日だなと思いつつ、ポケットをまさぐり鍵を手に取る。しばらくして、「久喜君、」と大家の呼び止める声がした。何事かと振り返ると大家がレジ袋いっぱいの蜜柑を抱えていた。「目白は蜜柑がお好きでしょう」などと不可解なことを言うので首をひねったが、そういえばどこからかチヨチヨピヨピヨと鳥の鳴き声がするような気もする。蜜柑はありがたくいただき、男を六畳一間の部屋へ招いた。

 

 

遠隔型の語り手、が普段やらない書き方で一番難しかった。結局、老人が大家であるという情報を入れ込む隙を見つけられなかった。書き分けることで、どの情報を誰が知らないのか、を整理する頭の体操になったと思う。疲れているとうっかり、語り手の知る由もない情報を書いてしまいそうなので気をつけねばなと思った。潜入型の作者も難しかった……。情報量は増やせるが、話が脱線する感じがあって、御するのが困難。あとは、作者自身の視点を上手く入れられたのか自分では判断できない。視点の選び方をどうすれば良いのか。書き分けられたとして、その物語に一番適した視点をどのように見つければ良いのだろうという点が気になっている。第七章は読書案内が豊富なので、読んでみようかなと思った。

文体の舵をとれ第六章

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の第六章を読んだ。人称と時制についてなのだが、英語と日本語の時制の感覚が異なるからだろうか、あまりピンと来ない箇所が多い。普段は、「〜する」「〜だった」を綯い交ぜにして文章を書いているわけで、それは多分ここで言われている「現在時制」と「過去時制」の話とは違う話なのだろうと思う。ので、この章の練習問題は文体に縛りをつけて書く、みたいな感じだった。正直、これで合っているのかわからないが、訳者註で「単純に〈今〉や〈かつて〉の切り替えがわかるように意識して執筆するだけでもじゅうぶん練習になる」とあるのであんまり神経質にならんでもいいんかな、という感じがする。

 

練習問題6:老女

 今回は全体で一ページほどの長さにすること。短めにして、やりすぎないように。というのも、同じ物語を二回書いてもらう予定だからだ。
 テーマはこちら。ひとりの老女がせわしなく何かをしている――食器洗い、庭仕事・畑仕事、数学の博士論文の校正など、何でも好きなものでいい――そのさなか、若いころにあった出来事を思い出している。
 ふたつの時間を超えて〈場面挿入(インターカット)〉すること。〈今〉は彼女のいるところ、彼女のやっていること。〈かつて〉は、彼女が若かったことに起こった何かの記憶。その語りは、〈今〉と〈かつて〉のあいだを行ったり来たり(行ったり来たり、に傍点)することになる。
 この移動、つまり時間跳躍を少なくとも二回(少なくとも二回、に傍点)行うこと。
一作品目:人称――一人称(わたし)か三人称(彼女)のどちらかを選ぶこと。時制――全体を過去時制か現在時制のどちらかで語りきること。彼女の心のなかで起こる〈今〉と〈かつて〉の移動は、読者にも明確にすること。時制の併用で読者を混乱させてはいけないが、可能なら工夫してもよい。
二作品目:一作品目と同じ物語を執筆すること。人称――一作品目で用いなかった動詞の人称を使うこと。時制――①〈今〉を現在時制で、〈かつて〉を過去時制、②〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制、のどちらかを選ぶこと。
 なお、この二作品の言葉遣いをまったく同じにしようとしなくてよい。人称や動詞語尾だけをコンピュータで一括変換してはいけない。最初から終わりまで実際に執筆すること! 人称や時制の切り替えのせいで、きっと言葉遣いや語り方、作品の雰囲気などに変化が生まれてくる。それこそが今回の練習問題のねらいだ。

 


①人称→三人称、時制→過去時制
 ネオラダンドまでの道のりは遠かった。彼女は毎日そこで地図を売っていた。ネオラダンドとインガルダのちょうど中間地点。どちらも栄えている街であるとはいえ、どちらへ向かう人間なのか、彼女には一目で見分けることができた。ネオラダンドは戦争――魔王による無慈悲なる侵略戦争の――最前線であった。彼女の目が重武装の男たちを捕らえた。国王は街を兵士たちに護らせていたが、辺境の地とあっては大軍を派遣するわけにはいかなかった。その隙間を埋めるようにして、武力や魔力に自信のあった者たちのなかから、少数精鋭の班を組んで魔物狩りを生業とする者が現れた。
 かつては彼女も、その中の一人だった。青髪のグリンダと言えば、その辺ではそこそこ名の知られた魔導師であったはずだ。彼女は仲間とともに、その人生の大半を戦渦に投じてきた。リーダーのケビンと彼女は恋仲でもあった。ネオラダンドがまだ、少しは平和だった頃だ。ケビンの指揮のもと、彼女たちはしばらくそこを拠点にして、兵士たちが捕らえ逃した魔獣を狩る日々を送っていた。ネオラダンド特産の青い染料。ネビラ織りのケープは、誰もが目を奪われるほどの鮮やかな紺碧で、ケビンが贈ってくれたそれを彼女は最後まで羽織り続けた。
 ケビンは目の前で死んだ。もし、魔法の発動があと少しでも速ければ。彼女が何度そう思ったことか。ケープの青が彼の返り血と入り交じり、複雑な模様を上塗りした。彼女は戦場から去った。
「ばあさん」
 屈強な男が目の前にいた。彼女は最近、過去に連れ戻されることが多くなった。そうでなくても、何度も何度も、嫌でも思い出された記憶なのに。
「その地図くれよ」
 戦士の目をしていた。ちょっとやそっとのことでは折れない強い意志を宿した目。ネオラダンドまで到達する実力があるのだ。ここで見かける戦士たちは皆、強かった。だが、帰ってこられる者はほんの一握り。彼女は、祈るようにネオラダンドとその先――彼女の最高到達点まで――の地図を彼らに渡した。そして、彼らに地図の詳細を詳しく言って聞かせた。彼らは、老いぼれの話を遮るでもなく熱心に顔を近づけた。情報の有無が命取りになることをしっかり知っている、聡い者たちだった。
 彼女は、最後に魔法をかけた。せめてもの祈り。葬送の老婆がおくる、死者を呼び戻すための。彼らにケビン、そして儚くも散った数多の戦士たちの加護があらんことを。真っ青な慈悲の炎が彼らを包んだ。

 


②人称→一人称、時制→〈今〉を現在時制で、〈かつて〉を過去時制
 ネオラダンドまでの道のりは遠い。私は今でも毎日、そこで地図を売っている。ネオラダンドとインガルダのちょうど中継地点だ。私には、どちらへ向かう人間なのか一目で見分けることができる。ネオラダンドはいまや戦争――魔王によるあの無慈悲な侵略戦争――の最前線だ。重武装の男たちがやってくるのが見える。彼らはきっと、ネオラダンドへ向かうのだろう。国王は街を兵士たちに護らせているが、辺境の地まで大軍をやることはできない。その隙間を埋めるようにして、武力や魔力に自信のあった者たちが、少数精鋭の班を組み、魔獣狩りを生業としてきたのは、もうとっくの昔からのことだ。
 かつては私もその中の一人だった。青髪のグリンダといえば、きっとそこそこ名の知られた魔導師であったはずだ。私は仲間とともに、人生の大半を戦渦に投じてきた。だが、その中でも楽しいことはあった。リーダーのケビンと私は付き合っていたし、まだネオラダンドは美しかった。ケビンの指揮のもと、私たちはしばらくネオラダンドを拠点にして、兵士たちが捕らえ損ねた魔獣を狩る日々を送っていた。そんな最中、あまり贈り物をしない彼がくれたあの青いケープ。ネオラダンド特産の青い染料。ネビラ織りのケープは誰もが目を奪われるほど美しい紺碧をしていた。私はそれを、最後まで羽織り続けた。
 ケビンが倒れる光景は、今でも鮮明に目に焼き付いていた。もし、魔法の発動があと少しでも速ければ。私が何度そう思ったことか。ケープの青が彼の返り血に上塗りされた。私はそれを見て、戦場から去ったのだ。
「ばあさん」
 屈強な男が目の前にいる。さきほど見かけた男たちだ。最近、過去に連れ戻されることが増えていていけない。そうでなくても、何度も何度も、嫌でも思い出された記憶なのに。
「その地図くれよ」
 戦士の目だ。ちょっとやそっとのことでは折れない強い意志を宿した目。ネオラダンドまで到達する実力があるのだ。ここで見かける戦士たちは皆、強い。だが、帰ってこられる者はほんの一握り。私は、祈るようにネオラダンドとその先――私の最高到達点まで――の地図を彼らに渡す。そして、彼らに地図の詳細を詳しく言って聞かせる。彼らは、老いぼれの話を遮るでもなく熱心に顔を近づける。情報の有無が命取りになることをしっかり知っている、聡い者たちだ。
 私は、最後に魔法をかける。せめてもの祈り。数えられないほどの戦士を見送ってきた私が、死者を呼び戻すための。彼らにケビン、そして儚くも散った数多の戦士たちの加護があらんことを。真っ青な慈悲の炎が彼らを包んでゆく。

 

 

問題文が長いて! 最初、「人称や動詞語尾だけをコンピュータで一括変換してはいけない。」と書かれているのに「そうだよね〜」と思いながら無意識でコピペして修正してしまい、あとから気づいて②を全部書き直した。書き直すうえで、文章が一致する箇所もあれば、わりと変化する箇所もあって面白かった。「〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制」を選択したほうが難しかったのかもしれないと思いつつ、易きに流れてしまった感じがある。あかん。

これは悪口になるかもしれないのであんま書かん方が良いことだとは分かっているのだが、文章が下手な人が小説を書くとき、なぜかやたら回想を入れたがるのはあるあるだと思っていて、たぶん人間が小説を読んでいるなかで「これかっけー!」と最初に思うテクニックが「回想」であることが多いのだと思う。私も別に回想が得意なわけではないのでこういうこと言ってわざわざ首を絞めることはないんですが……。なんか、それだけよく使われている技法のわりに、実際にやろうとすると意外と難しくて奥が深いということなんですかね、今すっげー浅いこと言ってるな。

文体の舵をとれ第五章

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の第五章を読んだ。この章は5ページしかない。テーマが簡潔性なので、章も簡潔にしたのだろうか? 普通にありえるのが怖いところだ。主張も明確で、かつ強度がある。良かった箇所を引用する。

物語内で〈ともかく〉起こることなどない。自分がそう書いたから起こるのだ。責任を果たせ!

 

練習問題
 一段落から一ページ(四○○~七○○文字)で、形容詞も副詞も使わずに、何かを描写する語りの文章を書くこと。会話はなし。
 要点は、情景(シーン)や動き(アクション)のあざやかな描写を、動詞・名詞・代名詞・助詞だけを用いて行うことだ。
 時間表現の副詞(〈それから〉〈次に〉〈あとで〉など)は、必要なら用いてよいが、節約するべし。簡潔につとめよ。
 本書を複数人で用いている場合、自宅で課題に取り組むことをおすすめする。今回はむずかしい上に、それなりの時間がかかるからだ。
 現在、長めの作品に取り組んでいるなら、これから書く段落やページを今回の課題として執筆してみるのもいいだろう。
 すでに書き上げた文章を、磨いて〈簡潔に〉仕上げるのもよい。それも面白そうだ。

 

『異界觀相』に掲載した小説の一節を書き換えてみた。最初に引用した文章が元から説明的文章に近くて、思ったより書き換えできる箇所が少なかったので、もう一つやってみた。書き換え箇所を太字にしている。

 

 

「わたしはエミュー」、『異界觀相vol.2』より

〈書き換え前〉

 その日、青い火球が天上へとのぼってゆくのをエミューたちは見た。青い火球は五秒ほどまばゆい光を発しながら力強く上昇してゆき、天球に一筋の白線を描いた。光が消え、夜空が再び静寂に包まれたのち、エミューたちは悟った。新しい夜明けが、新しい太陽がやってくるのだと。
 ウォー、ウォー。ボンボンボンボン……。火球が観測されたのは日本国関東地方周辺、二十三時半ごろのことだった。関東のエミューたちがにわかに騒がしくなると、ざわめきは大地に浸透し、やがて大きなうねりとなって地表をなぞり、広がっていった。火球の観測直後、上野動物園エミュー展示ゾーンでは、何度も何度も鉄柵を蹴り上げるエミューたちの姿が目撃されている。たまたま居合わせた飼育員が増援を呼び対処したことで脱走は免れたものの、エミューたちは外に出られることを確信しているかのような動きで、同じ場所を執拗に蹴り続けていたという。元来エミューは人間に対して攻撃的ではなく、屋外で飼育されることが多い。掛川花鳥園で屋外飼育されていたエミューは跳躍した。飛び越えられない高さに造られたはずの柵を、助走をつけることで悠々と飛び越えてみせたのだ。一羽がそうすると、他のエミューたちも真似して次々に跳躍した。エミューたちは散り散りになって、それぞれの方角へ去っていった。秋吉台の山道を運転中、突然三羽のエミューが駆け下りてくるのをキャンパーが目撃している。秋吉大自然動物公園サファリランドから脱走してきたエミューたちだった。エミューは最大時速五十キロメートルで走ることが可能である。キャンパーはすんでのところでハンドルを切り衝突を回避したが、状況によっては大事故に繋がりかねなかった。そうしたことが、全国各地で同時多発的に発生した。地上のエミューたちは我先にと動物園から、花鳥園から、牧場から脱走した。あとには目的を失った柵だけが残された。(786字)

 

〈書き換え後〉

 その日、蒼白の火球が天上へのぼってゆくのをエミューたちは見た。それは五秒ほど閃光を発しながら上昇してゆき、天球に一筋の白線を描いた。光が消え、夜空が静寂に包まれエミューたちは悟った。夜明けだ。真の太陽がやってくるのだ。
 ウォー、ウォー。ボンボンボンボン……。火球が観測されたのは日本国関東地方周辺、二十三時半ごろのことだった。関東のエミューたちが騒然として、ざわめきは大地に浸透し、うねりとなって地表をなぞり、広がっていった。火球の観測直後、上野動物園エミュー展示ゾーンでは、荒ぶったエミューたちの姿が目撃されている。居合わせた飼育員が増援を呼び対処したことで脱走は免れたものの、エミューたちは外に出られることを確信しているかのような動きで、鉄柵の同じ場所を蹴り続けていたという。エミューは人間に対して攻撃的ではなく、屋外で飼育されることが多い。掛川花鳥園で屋外飼育されていたエミューは跳躍した。飛び越えられない高さに造られたはずの柵を、助走をつけ飛び越えてみせたのだ。一羽がそうすると、他のエミューたちも真似して越境したエミューたちは散り散りになって、それぞれの方角へ去っていった。秋吉台の山道を運転中、三羽のエミューが駆け下りてくるのをキャンパーが目撃している。秋吉大自然動物公園サファリランドから脱走してきたエミューたちだった。エミューは最大時速五十キロメートルで走ることが可能である。キャンパーはハンドルを切り衝突を回避したが、状況によっては大事故に繋がりかねなかった。そうしたことが、全国各地で同時多発的に発生した。地上のエミューたちは動物園から、花鳥園から、牧場から脱走した。あとには目的を失った柵だけが残された。(716字)

 

 

「托卵」、『異界觀相』より

〈書き換え前〉
 練り辛子を餡に溶かす。伊地知はこれが下手で、場所によって辛さにムラができてしまう。少しふやけた麺ともやしを一緒に口元へ運ぶ。そこで、ふと何か派手なものが視界をよぎった。顔を上げるとちょうど店のガラス戸の奥に女が立っているのが見える。白と黒で構成された女。伊地知はしばし見惚れた。顎のあたりまで伸びた髪は灰色がかった白で、毛先に向かうほど深く黒く染まってゆく。百合の花びらのような純白のワンピースから、黒いレギンスに包まれた華奢な脚が覗いていた。まばたきをするたび、橙の化粧で彩られた長い睫毛が艶めかしく揺れる。
 水塗り絵の美人画の、顔にあたる箇所だけにさっと筆を走らせ、色を与えたような。伊地知は「美人も街中華に来るんだな」と偏見塗れの感想を抱いた。
 こんこん、女がガラス戸を叩いた。満席ではないのだから、勝手に開けて入ってくればいいのに。ちらりと後ろを振り返った。厨房ではコック帽を被った老人が忙しなく中華鍋を振るっている。客人に気付いている気配はなかった。店内を見回しても、入口に注意を向けている者は他にいないようだ。仕方なく、伊地知は割り箸を置いて席を立ち、引き戸をガラガラと開けた。(495字)

 

〈書き換え後〉
 練り辛子を餡に溶かす。伊地知はこれが下手で、場所によって辛さにムラができてしまう。ふやけた麺ともやしを口元へ運ぶ。そこで、何かが視界をよぎった。目を奪われる何かが。店のガラス戸の奥に女が立っていた。白と黒で構成された女。顎のあたりまで伸びた髪は灰色がかった白で、毛先に向かうほど漆黒に染まりゆく。百合の花びらを思わせる純白のワンピースにレギンスは黒足先にまで力強さとしなやかさが漲っている。まばたきをするたび、橙の化粧で彩られた睫毛が揺れるモノクロームの水塗り絵、顔だけに細筆を走らせ、色を与えたかのような。
 伊地知は見惚れ、「美人も街中華に来るんだな」と偏見塗れの感想を抱いた。
 こんこん、女がガラス戸を叩いた。満席ではないのだから、入ってくればいいのに。後ろを振り返った。厨房ではコック帽を被った老人が中華鍋を振るっている。必死の形相で、客人に気付いている気配はなかった。店内を見回しても、入口に注意を向けている者は他にいない。仕方なく、伊地知は割り箸を置いて席を立ち、引き戸をガラガラと開けた。(452字)

 

 

これは、推敲に良い指標だなと感じた。初稿が終わって、どこを削るか、あるいは言い換えるかを考えるときに。文字数も微々たるものだが減っている。また、自分ではいつも形容詞や副詞をつけすぎてしまっていると思いこんでいたが、予想していたより取り除くべき箇所が少なくて拍子抜けしたのも意外な発見だった。英語の形容詞・副詞と、日本語のそれは微妙に違うので、これが「修飾語句をすべて抜いて」という課題だったらやばかったと思うけど。
ル=グウィン先生が「今回はむずかしい」と書いているので、難しく感じなかったことが何かの引っ掛けなんじゃないかとビクビクしている。私がド派手に形容詞や副詞を見落としまくっているとか、有り得る話だ。

 

文体の舵をとれ第四章(一問目)

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の第四章を読んだ。それで、練習問題が二問あるのだが、それがなかなか難しく更新が滞ってしまった。体調を崩していたこともあってなかなか取り組めず、まだ二問目は書けていない。ブログが更新できず全てがフェードアウト……というのが一番避けたい展開なので、一問目が書けた時点で公開することにした。第四章の二問目は保留にして、一旦次へ進もうと思う。

 

練習問題1:語句の反復使用

一段落(三○○文字)の語りを執筆し、そのうちで名詞や動詞または形容詞を、少なくとも三回繰り返すこと(ただし目立つ語に限定し、助詞などの目立たない語は不可)。(これは講座中の執筆に適した練習問題だ。声に出して読む前に、繰り返しの言葉を口にしないように。耳で聞いて、みんなにわかるかな?)

 

 ハムはもんどり打って倒れた。弾丸が貫通した周囲の肉が弾け、ジュッと焦げ、ミンチの火花が広がった。次々に撃つ。ドヨン、ビャンとハムがもんどり打つ。脂の焦げた旨そうな匂いが漂ってくるも、あまり食欲をそそられる光景ではない。エイムは自分もと言って聞かず、身長と同じほどの銃を持ち、隣でハムを狙っている。構えだけは一丁前だ。撃った。衝撃を殺せず後方に吹き飛ばされる。エイムは小麦袋にぶつかりもんどり打った。兄たちは心配そうに後方を伺ったものの、彼の放った弾丸がハムどもにダメージを与えたこともきちんと見届けていた。この小さな戦士に差し伸べるべきは庇護の手ではなく、戦友の手であった。

 

「もんどり打つ」。
最初書き上げたときには400字を越していたが、文字数に忠実に書くのも練習だなと思い、300字程度に削った。
お笑い用語の「天丼」を思い出した。実際、目立つ語やフックになる言葉を繰り返し用いて文体や情調をつくるという技術は「天丼」とやっていること同じだと思う。

 

練習問題2:構成上の反復
語りを短く(七○○~二○○○文字)執筆するが、そこではまず何か発言や行為があってから、そのあとそのエコーや繰り返しとして何らかの発言や行為を(おおむね別の文脈なり別の人なり別の規模で)出すこと。
やりたいのなら物語として完結させてもいいし、語りの断片でもいい。

 

未回答。一旦、第五章に進みます。

 

文体の舵をとっていて、第四章で完全に凪の海域へ入ってしまったわけだが、少しの風でも頼りにしてどこかへ進まなければならない。少し前に書いた小説を読み返していたのだが、「ここはもっとこうした方が良くない!?」と気になる箇所が出るわ出るわ。まさかこんなに早く文舵の効果が出るとは考えがたいが、潜在的には少しずつ何らかの変化が起こっているのかもしれない。……と信じて先へ進む。