コインランドリーで失踪

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文体の舵をとれ第三章

アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』の第三章を読んだ。本当は昨日やる予定だったのだが、バタバタしていて落ち着いて取り組めそうになかったので昨日は休みとした。一日やらないだけで、ちょっと本を開くのが面倒になるのだからすごい。なんとか第三章のページをめくることができた。

文の長さに最適はない。変化に富む(原文では傍点)のが最適だ。いい文体において文の長さは、前後の文との対比や相互作用(と言わんとすること、やろうとすること)から決まってくる。

孫引きになるが、引かれていたヴァージニア・ウルフの手紙が良かったのでこちらもメモしておく。

文体とはごく素朴な問題であり、つまりはすべてリズムなのだ。いったん乗れば、もう間違った言葉は出てこない。ところがかたや、朝も半ばを過ぎてここに座っているわたしは着想(アイデア、とルビ)や夢想(ヴィジョン、とルビ)などでいっぱいなのに、その正しいリズムが得られないために、そいつを外へ出せないでいる。今やこれはたいへん深刻で、リズムとは何か、そう、言葉以上のはるか深いところに入っている。情景、情感がまず心のなかにその波を作り、そのあと長い時間を経て、見合った言葉が生まれてくる。

文体はリズムというのは実感するところで、文体の合う合わないは結局、音楽性の違いなんだろうなとよく思う。なぜかこの人の文章はつっかえたり読み落としがよく発生するな、と思うのは、その人の文章の巧拙だけでなく私とその文章の間にあるリズムの相性の合う合わないでもあるのだろうと感じることが最近多い。そういった文章の場合は、一言一句こぼさぬよう精読するほかないが、そうでなく「相性の良い」文章を読んでいるときの喜びといったらまた格別のものがある。

今日の練習問題。

 

練習問題1
一段落(二○○~三○○文字)の語りを、十五字前後の文を並べて執筆すること。不完全な断片文は使用不可。各文には主語(主部)と述語(述部)が必須。

 

ここでは、十五字前後をだいたい十二〜十八字であると解釈して書いてみた。が、たまにその範囲を少し外れてしまっている。やっぱり、たった六文字の範囲でも、長い文章のあとには短い文章を無意識に持ってきてしまっていて、書き終わったあと字数を数えながら修飾語を挿入したり削ったりして調整するはめになった。(たとえば、「甥がこちらを見る」を「甥がこちらをじっと見る」にしたり、「ぼく沖縄に行きたい」を「ぼくさ、沖縄に行きたい」に変えたり。)

また、問題文には[英語の主語+述語という主体と動態の関係構造は、日本語にそのままで当てはまるものではないため、たとえばここでは、〈何〉について〈どう〉であるか、のように主題を対象とする陳述・叙述が成立していればよいものとする]と訳者の補足がある。私は、主語を省略しちゃダメなのむっず!と思いながら書いて、書き終わってからその読み落としに気づいた。

 

 甥はカワセミが好きだった。カワセミは宝石なんだって。ホバリングって飛び方があってね。クチバシがこんなに長くてね。丸っこい手を甥が広げる。全体の大きさはこれくらい。大型の鳥類図鑑を甥の手が指さす。「メスは下クチバシが赤い」図鑑は小さな体から大胆にはみ出ている。甥の口は止まることがない。アカショウビン、ぼく見てみたいんだ。アカショウビンカワセミの仲間だよ。図鑑で見るそれは名前の通り真っ赤だ。ぼくさ、沖縄に行きたい。甥がこちらをじっと見る。うるうるした目がわたしを射すくめた。ママに相談しておくね、とわたしは言う。次の休みは半年後だろうか。その頃にはこの辺一帯雪景色だ。沖縄の冬は、鳥たちに優しいだろうか。実はね、と甥が声を潜めて言う。見たことあるんだ、カワセミ。パパが山に連れて行ってくれた。キッチンの姉をわたしは目の端に留めた。どうだった?とわたしは聞く。きれいだったよ、と甥はまた囁いた。カワセミは枝にとまってた。宝石っていうのは本当だったよ。
 半年後、わたしは多忙を極めていた。甥のクリスマスにわたしはドローンを贈った。甥はまだカワセミに夢中だろうか。あの年頃の興味の移り変わりは早い。アカショウビンはきっと雪を知らない。南へ行った甥の父親もまた、同じく。

 

練習問題2
半~一ページの語りを、七○○文字に達するまで一文で執筆すること。

 

第二章では句読点を使ってはいけなかったが、今回は句読点は使用して良さそうだ。確かに、第三章では「セミコロンを恐れるな!」というル=グウィンさんの主張がかなり強くて、そうした「区切り」を駆使して文章の流れをつくれ、という課題なのだろうと理解した。でも、「日本語にはセミコロンないもんな〜」と思いながら、結果として鉤括弧やダッシュ三点リーダーをやたらと多用することとなってしまった。

すべてが「、」で区切られ、長大な一文で出来ている小説として、佐川恭一『受賞第一作』を思い出す。読み返そうかな。

 

 ……店に着くと行列ができていて、わたしは前に並んでいる客に何が起こったか尋ねるはめになったのだが、その客が言うにはレジが壊れてしまったのだというから大変だ、これはドーナツ――言い忘れていたが、店というのはわたしが敬愛してやまないミスタードーナツのことだ――にありつけるのはだいぶん先のことになるだろうと時計を確認しようとしたところ、「三十分ですって!?」と老婦人の金切り声が割り込んできて反射的に顔を上げる……店員が二、三名――うち一人は制服が少し豪華だから偉い奴に違いない――が客に囲まれておろおろしているのが見える、先ほどの老婦人の隣にいた男性が今度は「それまでは会計できないってことですか?」と立て続けに質問を浴びせたのに応え、その(おそらく偉い)店員が「大変申し訳ございません。現在最善をつくしておりますがなかなか復旧のめどが立たず……」と沈痛な面持ちで深々と頭を下げたものの、店内に一瞬で蔓延した「こりゃあかんわ」という空気が晴れる気配はない――それからの客の行動は早く、我先にとカウンターへトレーやトングを返却しては「三十分もかかるんでしたらちょっと……」と言いながら次々そそくさと退店していった――あとには、わたしと、どうしてもドーナツでないとダメなのであろう子連れ客くらいしか残されておらず、子どもたちの方は何が起こっているのかいまいちよくわかっていない様子、普段と何かが異なるということだけが察せられるようで、心なしか目がらんらんと輝いているようにも見えないこともない――レジが直るまではどうせ待ち時間で、ドーナツの陳列されたカウンターの前に並ぼうが並ぶまいが大して変わりはないだろうという判断から、わたしは先に店内の席取りを行うこととし、ちょうど良い席に腰掛けるとその隣の席で子連れ客の両親が困ったように顔を見合わせている――「じゃあね、埼京線に乗ってミスド食べに行くのと、メトロに乗ってパン食べに行くのと、どっちがいい?」よく分からない二択を彼の息子に提示しているが、よく分からない二択であることに変わりはないので当の息子は「なぜ既にミスドにいるのに移動せにゃならんのですか?」とでも言いたげな不服そうな面持ちで、どちらとも応えず頑として座席から動こうとしない……おそらく、息子は鉄道好きの子どもに違いない、それで大して好きでない埼京線に乗ってミスドを食べに行くか、それとも彼の好きなメトロに乗ってパンを食べに行くか(おそらくこちらが両親の選択してほしい回答だろう)、つまりミスドを妥協する代わりに好きな電車に乗っていいからここを離れませんかという交渉だったのだろうと推測されるが(息子からすれば、そもそもなぜそのどちらかを選択しなければならないのかに納得できないのだ)、子ども相手に交渉をするのは大変だということがよくわかった……結局、レジの復旧にさほど時間はかからず(三十分は冷静な数字ではなかったようだ)、少ししてから無事にドーナツを購入することができ、その息子らもその場でミスドにありつくことができたようだった、わたしは待たされた分を取り返すようにフレンチクルーラーとダブルチョコレートとシュガーレイズド(三つも!)を注文した。

 

・第三章までの課題をやってみて、そういえば全体の字数制限は全然意識してなかった気がするなと思い至った。練習問題2は七◯◯文字で良いのに、結局千三◯◯文字くらい書いている。反則ではないと思うが、これが半〜一ページの語りであるかどうかは若干疑わしい。また、練習問題1は一段落しか書いちゃダメっぽかったのに二段落めを書いてしまっている。消したくないのでそのままにしておこうと思うけど…。

・本書では、大体一段落が二◯◯〜三◯◯文字、一ページが七◯◯文字程度とされているようだが、どういう基準なのだろう。

・練習問題にはテーマ案をつけてくれているのだが、問一は緊迫・白熱した動きのある出来事、問二は感情が高まっていくさまやおおぜいの登場人物が盛り上がってひとつになるさま、といった例示がされている。私の書いた文章は、どちらもそれに当てはまらない感じがする。問一の方が動きがなく、問二の方も別に終盤盛り上がるわけでもない……まあ、あくまでテーマ「案」ですし……。