コインランドリーで失踪

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造鳩會『異界觀相』感想

造鳩會の藤井佯です。1年越しとなりましたが、造鳩會から発行した『異界觀相』の各作品感想を書いておきます。

ネタバレ全開で行くので、『異界觀相』未読の方は……まあお任せします。

zo-q-kai.booth.pm↑ここから買えますよ。

 

また、11月20日(日)に開催される文学フリマ東京35にて新刊『異界觀相 第二号』を販売予定です。情報解禁までしばらくお待ちください。

フォローしてね。

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-----------以下ネタバレあります-----------

 

表紙

airi maeyamaさんにご依頼した。大変素晴らしいのでフォローを推奨します。
ちなみに、扉の『異界觀相』の字も書いていただいた。
複数案出してくださり、三人とも満場一致でこのイラストに決まった。この表紙に惹かれ手にとってくださった方も多いだろう。感謝してもしきれない。

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巻頭言/伊東黒雲

そもそも、造鳩會(ゾウキュウカイ、と読む)はこの文芸誌を制作するためにつくられた結社である。メンバーの私、藤井佯と伊東黒雲、デザイナーの亜脩はそれぞれ大学時代からの知り合いだ。具体的に言うと、私にとって黒雲さんは同大学同学部の、たしか3学年上の先輩で(なぜか私も留年したうえで黒雲さんと同年に卒業することとなる)、亜脩さんはかつて某大学のジャズバンドに加入していた際の横の繋がりで、黒雲さんと面識があったのだったと記憶している。三人揃って顔を突き合わせたのは、たしか大学近辺のバーでのことだった。当時黒雲さんとも出会って3回目くらいだったはずで、豊富な読書量から裏打ちされた早口で異常な発言の数々から「おかしな面白い人だなぁ」と思っていたし、そこに居合わせた亜脩さんにいたっては着物姿だった。長髪によく似合っていたが、偽の森見が書いた小説の中にいるのかと錯覚した。煙草の煙で髪を燻されながら、ああ、ここにいるのは全員大学の正規ルートのコミュニティから外れた人たちなのだなという月並みな安心感を覚えた。その後、亜脩さんは大学付近で『深夜喫茶マンサルド』を開店する。私たちはそこをアジールとしていた。

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(現在、深夜喫茶マンサルドは中崎町へ移転している。大阪へ行くことがあればぜひ)

そう、巻頭言の話をしようと思ったのに思い出話をしてしまった。コロナ禍が、やはりきっかけだったと思う。亜脩さんは喫茶店をやる前はデザイナーとして働いていて、大学時代から界隈の同人誌のデザインを請け負っていた。webと紙面では異なる部分も多々あるかと思うのだが、亜脩さんはどちらもできる人で、私はいずれ本を出す時にデザインしてくれたらなと常々考えていたのだった(実際、周囲の友人同士で文芸誌を出そうという動きは数年前に発生したことがあり、いくつか原稿は集まっていたようなのだが結局うやむやになってしまった。私はそれが非常に勿体無く感じられたというか、とにかく未練があった)。そんな折に、コロナ禍がやってきて、喫茶店は閉めざるを得なくなり、亜脩さんは暇で死にそうになっていた(人間には暇で死にそうになるタイプと忙しくて死にそうになるタイプとがいる。もちろん限度はある)。これはチャンスだなと思ったので(?)、声を掛けて結成されたのがこのサークルだ。実は文芸誌名の方が先に決まった。『異界觀相』。四角がたくさんあって嬉しいという理由だったかと思う。そのあと、「鳩を造るのはかなり異界觀相度が高い」ということになり、サークル名が造鳩會に決定した。

そんなノリで発足したものだったから、黒雲さんからこの巻頭言が出てきたときに驚いた。何これめっちゃかっこいいじゃんと思った。小説を書く人間なんて例外なく厨二病だから。

全体として、時事に踏み込んだ作品はあまりなかったのだが、巻頭言では「ニューノーマル」「新しい生活様式」というのは私たちにとって異界でしたよね、ということを確認しておきたかった。

結局のところ私たちは、異界が現れる以前の「何か」を十分に掴み取れていないがために、見失いの帰結としての異界をも見失う、ということになるのである。

各執筆者に依頼をする際、「異界へどっぷりと入り込んでしまうのではなく、あくまでそれを観相することに主眼を置いています」という文章とともにご検討いただいた。ではそもそも異界とは何なのか。私たちはその答えを持たない。問いごと書き手に委ねている。異界とは何なのか、觀相するとはどういうことなのか。その答えを様々な枠組み(フレーム)で提示することこそが、この文芸誌の目的である。

よって本誌は己の出自を知らない。

ちなみに、巻頭言の日付はハロウィンで、黒雲さんがふざけていたので私も編集後記でふざけることにした。

 

伊東黒雲『子午線の結び目』

はじめ読んだとき、何が起こったのかすぐには分からなかった。やがて理解が追いついてきて、中盤登場するエッシャーの絵画がずんと効いてきた。Pの胴体がマジで不気味。全ての行動が唐突。P(眼球)の「不愉快だ! わたし抜きでわたしのことが眼の前で進められている! しかもそれにわたしの一部が加担さえしている!」という嘆きには思わず笑ってしまった。かわいそう。
羽と尾の描写だったり、睡眠導入剤が少しばかり溶け出した尿の泡立ちだったり、肛門へ脳を挿入しようとするくだりだったり、とにかく黒雲ワールド全開という感じがする。冒頭の文章がやたら長文なのも迫力だし、そもそもどういう状況やねんという始まり方をするのでPに全く感情移入できないまま見守ることになるが(共感できる方もいるかもしれませんが…寝室中を黒色塗料で塗り固めるな)、動揺した際に定理の証明を試みたりだとか、小説が家に一冊もないだとか、玄関を掃除しろと自分にキレたりだとか、なかなか可愛げがあって良い。
同じことがVにも言えて、即席麺を啜るVのシーンはお気に入り。文中にある通り「パズルのピースを組み上げることより、複数の断片をパズルのピースだと認識することの方が難しい」のだが、すべてを理解したVの手つきはあまりにも鮮やか。ここで再び読者の脳内に遅延が発生する。しかし最後まで読んで「ぱたん」と物語が、本が閉じられるとき、皺を一気に伸ばすようにして、この物語の凄みがガツンと質量を持って脳へ到達する。考えてみると、本を開いた様子と瞼を開いた様子は非常によく似ている。開いた本の向こう側に何者かが潜んでいやしないか、思わず本の喉を凝視する。

 

柊正午『白瀬矗の講演』

実在の人物、白瀬矗の講演録という体で物語は進む。南極探検隊の隊長がその冒険の最中に遭遇した奇妙な出来事について回想する。「上野にて 明治四六年一○月」という表記を見て「あっ」と思う。書き出しがとにかく秀逸。「……犬が死んだので、食べようということになった。」この書き出しで引き込まれない人はいないと思う。情景描写が非常に上手くて、好みだった。

巨大化した光球は白い大地を飲み込み、視界のすべてを輝白の世界へと転じさせる。白い世界はぼんやりと後退し、やがて間もなく世界は輪郭を取り戻した。地平線が現れ、その上には太陽が輝き、雲が漂う。光球は萎み、その筋は氷原の果てへと消えた。

なんて美しいのだろうか。淡々とした文章であるが、南極に強烈な光を放つ光球が落下するさまをありありと想起させる。彼らが遭遇した謎の存在についての描写も最高なのだが、これは(未読の方がもしかしたらいらっしゃるかもしれないので)念のため伏せておく。終わり方も素敵。謎の存在に遭遇しようが、それはそれとして南極探検隊の使命はできるだけ高緯度へ赴き、探検を成功させ、無事に帰還することだ。そして、白瀬矗個人に関して言えば「この手で極軸に日章旗を突き立てる」ことを人生の目的としている。道中謎の存在に遭遇しながらもそれは彼らの運命に直接関わることはなく——そしてその正体は結局謎のままで——南極探検隊はついに南緯八三度五分地点まで到達し、日本国民らの署名を入れた箱を雪原に埋める。そして宣言するのだ。

「この南緯八三五分というところは、われわれが日章旗のもと、日本の領土として占領するものである。この地点に、後日のため、この箱を埋没する」

このくだりが本当に好きだ。なんか、そんなもんだよなと思えて。謎の存在との遭遇は講演で語るくらいには白瀬矗本人の記憶にも強く残っているのだろうし、結局なんだったんだあれ、と幾度も考え込む瞬間があっただろうなと思う。しかし再び南極へ彼が赴いて確認するといったことは現実的に起こりづらいだろうし、彼のその後の人生にそれが絡んでくる可能性は限りなく低い。「結局なんだったんだあれ」で終わるところが、この作品、南極世界や謎の存在の描写をより一層輝かせているのだと思う。

 

灰谷魚『ときめく夢だけ捨てました』

あのさあ。だめです。良すぎる。灰谷魚さんの作品は数年前からずっと追いかけていて、まさか快諾してくれるとは思っていなかったので終始「ぴゃー><」と思いながら編集していた。好きな作家の作品をいの一番に読めるので文芸誌は作ったほうが良いです。灰谷さんの小説は、とにかく登場人物の会話がテンポよくて、生き生きとしていて、ありそうで、とても真似できないなあと平伏してしまう。この『ときめく夢だけ捨てました』も例に違わず女性同士のやりとりが最高。
事故物件でルームシェアすることになった二人の女性の物語なのだが、二人とも嫌いなものが似通っていて、二人で会話していると自動的に毒コミュニケーションをしだすのでかわいい。灰谷さんは、たとえばサブカルの、たとえばインターネットの「嫌」を嫌味なく小説に取り込んでしまうのが非常に上手くて、あれはなかなかできることではないと思う。絶妙なバランス感覚。
そして、二人の日常の影に事故物件らしく死の影が常にちらついているのが不穏で良い。好きな箇所。

翌朝、宇井芽衣はまったくの別人に生まれ変わっていた。

(中略)

ユマはほんの少しの落胆と、大いなる癒しと、深い憐憫と、ひどい気怠さを同時に感じた。呆れ果てていたのかもしれない。果物ナイフで刺し殺してやろうか、という考えも一瞬よぎったほどだ。しかし、これで芽衣に対してようやく対等に向き合えるような気もした。

野村ユマが絶命してから、何が実際に起こったことで、何が起こらなかったことなのかが曖昧になってくる。しかし、野村ユマは現実に存在したし、宇井芽衣も確かに現実に存在した。ユマは、芽衣と同居を解消してから、宇井子子(芽衣の小説家としてのペンネームである)が大作家として躍進するさまを、どのような気持ちで眺めていたのだろうか。知る由もないが、ここでタイトルの『ときめく夢だけ捨てました』が鈍痛を伴って語りかけてくる。

私にとって純粋に青春と呼べる期間は四○○時間ほどだった。これから先は何もない荒野を、私の体だけが走り続けることになる。

 

藤井佯『托卵』

自作のため感想は割愛します。

 

葦田不見『眼にて黙す』

葦田さんの詩は、いつも「眼」「盲いること」に主眼が置かれている。

ほら、眼が合ったでしょう、しらんぷりなどおよしになってください

読み進めていくと本当に眼が合っていたのかかなり疑わしいが、その真偽含めて味わい深い。

「わたくしの眼をあげましょう」と通行人を呼び止める謎の人物。

その眼を、わたくしにも貸してくれませんか

あなたの眼から見えるけしきを少しばかりのぞかせてくれませんか

わたくしの眼に本当に何も映っていないのか確かめたいのです

非常に不気味な申し出なのだが、どことなくユーモラス。眼を取り出して、その眼に何が見えるかを尋ね、何も見えないと言われたら今度は本当に何も見えないのか確かめたいから眼を貸してくれと言う。
参考として記載されている宮沢賢治「眼にて云ふ」にもこのユーモラスさはあって、しかしこちらの場合は、「ゆふべからねむらず血も出つづけ」な死にかけの人物が語り手だ。…語り手なのだが、どことなく自分を客観視しているというか、死にかけなので幽体離脱しかけているというか、とにかく死にかけの自分を他人事のように俯瞰している様子が描かれている。話し言葉で書かれた詩だが実際に口から声を出しているわけではなく(死にかけだから)、タイトル通りこの人物は「眼で語っている」のである。それに対して、葦田さんの詩のタイトルは『眼にて黙す』。おそらくこの怪人物は実際に通行人に話しかけている(通行人すら存在しない可能性については一旦置いておきましょう)。しかしその人物から取り出されてしまった眼はもう語ることはできない。眼は沈黙し続ける。

眼を抜いたところからイメージが血と一緒にがぶがぶ湧いては流れ出て仕方ないのです

これは「眼にて云ふ」の冒頭「だめでせう/とまりませんな/がぶがぶ湧いてゐるですからな」のオマージュだ。同じく「眼にて云ふ」をオマージュした一節。

いまわたくしから見えるのは

きれいな青空と

すきとおった風ばかりですが

あなたの方からみたら

やっぱりずいぶんさんたんたるけしきなのでしょう

しかしここからの展開。その人物は、通行人から何かを教えてもらったのだろう。死んでも文句はない、ありがとうございましたと言って詩は終わる。からっとした爽やかさがあって好きだ。通行人が死にかけの彼に何を伝えたのかは明かされない。別にハッピーエンドというわけでもバッドエンドというわけでもないのに、なぜだか「良かったね」と笑顔になってしまう。良い終わり方だなあと思う。
『眼にて黙す』は小説4篇の直後に始まるのだが、ここでがらっと展開が変わる印象があって、配置も大変気に入っている。この詩を境にして『異界觀相A面』と『異界觀相B面』が切り替わるイメージで掲載順を考えました。

 

多賀盛剛『prism genesis

この連作が提出されたとき編集部が騒然としたのを覚えている。やばいものが送られてきたな、と思ったし、この作品を掲載できることに心が踊った。

したしみないさかみちで、かたむくからだの、まわりもそうで、ほんまっぽい、

したしみない、くるまがはしる、びでおのとちゅうの、ほんまのからだ、

びでおも、しあわせも、へんかなくて、したしみぶかい、ほんまのからだ、

これは冒頭三首だが、このようにして前に出てきた言葉が少しずつ変化しながら繰り返されて歌が紡がれていく。
ここで、prism genesisというタイトルを考えるとき、Fuji Grid TVのVaporwaveなアルバム『Prism Genesis』に行き着く。1980年代の日本のコマーシャル、ジングルなどをサンプリングして仕上げられたアルバムだ。つまりこの連作は、一首一首が互いに干渉しあい、サンプリングしあい、増殖しているのだ。プリズムに通された光が乱反射していくように。多賀さんの短歌に共通する特徴として、ひらがな、そして方言によって記述され、末尾に「、」が穿たれるという点が挙げられると思う。それはこの『prism genesis』でも健在で、歌はあくまで改行によって区切られているだけで、全てつながっている。いや、そうではなく、なんといえば良いのか。区切られてはいる、でも同時に繋がってもいる。「、」によって、改行によって並べられた歌は、歌として存在もしているし、もっと小さな単位でも存在しているし、隣り合うもの同士は共鳴しあっているし、もっといえばすべてが繋がった円環としても存在しているのではないかと思わせられる。
私の好きな歌を切り取ってみた。

しめしあわせた、からだのまま、だれかをいきた、だれかのからだ、

ちなみに、巻頭言の「人は皆、旅するプリズムである。」から始まる段落は、きっとこの多賀さんの短歌からインスパイアされたのだろうと推測しているのだが、黒雲さん、どうでしょうか?

最後に、インターネットに落ちていたFuji Grid TV『Prism Genesis』のリンクを貼っておく。ぜひ、これを聴きながら読み返してみてほしい。

youtu.be

アルドラ『統失日記』

アルドラさんとは以前からFFで、彼が統合失調症を発症する前から幾度かリプライやDMのやりとりをしたことがあった。短歌をつくっているのも知っていたし、普段のツイートも非常に面白いので依頼した。正直なところ短歌で依頼するかどうか直前まで迷ったのだが、アルドラさんがたまに行う「当時の日記には〜〜と書かれていた」というツイートに惹かれ続けていた。日記をつけているという事実自体が私には非常に好ましく思えたし、その日記の内容も(ツイートから察するに)超面白かった。嘘日記でも構わない旨を記載して依頼を送った。そのため提出された原稿の真偽については立ち入るべきではないと考えているが、「はじめに」には「本寄稿文では主に一次史料である日記を中心として取り上げ、それをもとに本稿を書き進めた。読者の理解の助けとするため、一週間ごとに区切り、メモの内容や通帳の記載、ツイート文などを参考にして、まとめていく」とあるので、この日記は限りなく事実に基づいて記述されている旨を申し添えておく。この原稿が、一人でも多くの方に統合失調症という病について知ってもらうきっかけとなれば幸いである。
統合失調症に見られる4つのステージのうち、この日記では前兆期と急性期の経過が記されている。8月頃から、「午前中壁に刺さっていた盗聴器(注、画鋲のこと。)を焼却処分する」「大学の教務から電話がかかってくるが俺の敵なので無視した。教務にメールで俺の個人情報をばらまかないでくれと懇願」と病の兆しが見えている。このあたりは、世間的に認識された統合失調症の典型的な症例であるように感じられる。一週間ごとに病状の進行がまとめられていて、過去の日記を現在時点から見返して副音声のように解説する形式がとられているのが面白い。

9月2日(月)曇

(中略)頭が重く、風邪のような症状が出ていたので店長に電話をかけて今日の夜勤を休めないかと相談するとまだ一日も始まったばかりだし夜には体調がよくなるのではないかと言われ休めなくて(中略)風邪薬と栄養ドリンクをドラッグストアで買って家に戻ると不思議な夢を見た「お前は戦士だ」と言われ北朝鮮中国共産党がお前の能力を買っていると教わって目が覚めると熱は引いていて妙に頭がすっきりしている。店長に夜勤行けますと報告すると次の瞬間には店舗にいた。

この週のまとめ。

9月第一週まとめ

統合失調症の急性期に入る。毛沢東語録の内容は今でもところどころ暗唱できて、急性期と慢性期の筆者が地続きである感覚がして背筋が寒くなる。

統合失調症の当事者から見た世界を知ることができるという点で興味深いというだけでなく、純粋にアルドラさんは非常に文章が上手く、前のめりで読まされてしまう。しかし、私の感じている面白さは非常に悪趣味なものなのではないかという疑問に、目を背けることは出来ない。まず、他人の日記というのはほとんど読む機会を得られないものだ。読まれるために書かれる日記もあるが、基本的にはごくパーソナルなもので、それは誰かの目に触れることを想定されて書かれてはいない。その罪悪感が一つ。そして、明らかに統合失調症の症状由来であると思われる行動を「面白い」と思いながら読んでも良いのかという問題。非常に文章が上手いのでつい「作品」として読んでしまうが、ふと我に返り立ち止まってしまう。私の立場を表明しておくと、どうしても掲載した立場からの言にはなってしまうが、これは限りなく事実に近い記述ではあるものの、かといって「ノンフィクション」として括れるものでもない。月並みな言い方になるがフィクションとノンフィクションの間に属するもの、「日記」としか表現しようのないもの。そして、そうした形式でこそ、この病について語られるべきだと私は考えている。たとえそれが面白かろうが面白くなかろうが、それはまた別問題だ。そして、アルドラさんの日記は、最高に面白い。

 

懶い河獺『落下するレオロジー 山中散生の詩的原理』

この論考に接するまで山中散生という詩人の存在すら知らなかった。インターネットで検索してみても、ヒットする情報はあまりにも少ない。

しかしこれだけの役割を担いながら、彼は瀧口修造のような理論的支柱とはならなかった。それは山中の仕事の重心が主に海外の動向の紹介や文学史的な整理に置かれていたことにも因るだろう。

シュルレアリスムを日本に紹介した主要人物であり、訳者、評者として泥臭い仕事を行い続けてきた山中散生の、その詩人としての顔はいかなるものであったかを暴く。それがこの論考の趣旨である。

まずもって、こんなに良い作品を書く詩人が埋もれていたのかという新鮮な驚きがある。山中散生著・黒沢義輝編『山中散生全詩集』から「対位法」。

とつぜん 巨大な球体が

すざまじい音響を発し

多彩な色をまき散らし

天井をぶち抜いて墜ちて来た

めっちゃ良くないか。懶いさんは、これらの詩から「特に戦前期の山中にとってこうした操作は修辞的な軸となる手法であった。繰り返し上昇と下降、あるいは墜落を出現させることで、重力の働きそのものの滑稽さを明るみに出す」ことを見出す。しかし、山中の感覚は大戦を機に一変する。以下、山中の言。

言語の魔術的使用法として、メタフォルやネオロジズムを不断に使用することは、シュルレアリスムの常套的手段であったが、しかし僕はこういう皴のある言語を駆使しておられないほど、現実はあまりに生々しく、僕の肉体に迫ってきているのだ。

懶いさんの論考はここからがさらに見どころで、詩的言語上の操作が現実に対して敗北したのち、どのように山中が己の詩学を追究していったのかを、作品を丁寧に追いながら看破する。浸食というキーワードが提示された際には思わず膝を打った。粘度の高い流体が境界を浸食していくさま。それらは夢と現実、詩の内容そのものだけでなく、次の文節、次の行へと意味を連関させ、接続していくイメージである……私では到底辿り着けない見方だと思う。

輪郭を欠いた不定形の肉体は、現実の質量、落下も飛行も宙返りもしない質量を思わせる一方で、それが透明化していくことは言葉が出来事の因果関係としての物語から逃れようとすることの象徴として読みたくなる。

パンチラインすぎる。最高。ここで『落下するレオロジー』という痺れるタイトルの意図が明らかとなる。「重力と浸食」、これらの二軸を暴いてなお、懶いさんはこう続ける。

そのことは、彼がもっぱらこのようなイメージばかりを多用したことを意味しない。それらを変奏、転移させつづけることで、詩人は自らの世界を決して古くさいものにしなかった。

私はこの文が非常に気に入っている。この二文に、今まで見過ごされがちだった一人の詩人への包み込むような愛を感じるのは私だけではないはずだ。

 

大槻龍之亮『わからなさの只中へ突き進んでいくこと、おれはそれを詩だと思っている』

なんだこのタイトルは。提出された論考を見て、あまりにも良くて爆笑した。なにせ冒頭が「ある日わからなくなった。」から始まる。

ある日わからなくなった。何がわからなくなったのか。それもよくわからなかった。とにかく、この世界にいることそのもののわからなさ、といえばいいのか。

「目の前の世界のわからなさから、そのわからなさの彼方へ向かう、そのやり方、道程を描きたいと考えている」と大槻さんは言う。そうするとすかさず「わからなさの彼方って何?」と質問が飛んでくる。ここからなんと大槻さん×2の質疑応答が始まる(!)。「」の応酬だ。そして、質疑応答はこのようにして続く。

「僕もどうしたらいいんだろうって思う。でも、そんなときに、言葉や世界に対してよくわかんないって感じに対して、向かうためのやり方があるんじゃないかなって考えている」「そのやり方って、何?」「詩」「詩?」「そう、詩」「詩ってあのポエム?」「そう、まあ、その感触で呼ばれるところのポエムと、僕の考えている詩はちょっと違う気もするんだけど」「まあ、その違いってのがよくわからないんだけど、ってうか、そもそも詩って何?」

ここから引用される「詩」が独特で、しかし非常に得心のいくチョイスで面白い。まず引用されるのは、なんと、滝沢カレンのある日のInstagramである。

 
 
 
 
 
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www.instagram.com確かにこれは「詩だ」と感じる。でも何を以て?確かに私はこれを「詩じゃん」と感じることができる。しかしwhyを突きつけられると返答に窮してしまう。たしかに、なぜなのだろう……。大槻さんはここからさらにわからなさの只中へ突き進んでいく。彼の考えはこうだ。「「私」がいる「世界」そのものについて思っていること、考えていること、その底にある前提を崩していく状況」がこの文章に存在することで「詩である」と感じたのではないか、と。そしてヘレン・ケラーの世界について語りは進む。加速が止まらん。

(中略)いわば、「私」と「世界」への関係が結ばれる一つの瞬間。(中略)そして、これが自身の感覚から、世界を捉えなおし繋がってゆく、詩が、言葉が、「私」と「世界」への回路になることの原初的なできごとではないかと、私は思うのだ。

なんて熱量のこもった文章だろうか。

いつだって、ものごとは起こり続けている。その様々な形態のなかで起こりつづけていることと連絡していくために、おれはひとつの回路として詩を考えているんだ。この世界にある恒常的な不安定さの最中に向かっていく、というか、すでにその只中にいることに気づいていく。それが大事なんだ。

感想なので好き放題言うが、読み味がまるっきりサン・テグジュペリ星の王子さま』である。ちなみに「詩論を書いてほしい」という依頼だった。大槻さんはその漠然とした依頼から「そもそも詩とはなんだろうか」ということをひたすら真っ直ぐと突き詰めてくれたのだ。伝えたいことはタイトルに全部書いてあった、大事なことは全部ここにあったんだ……。編集部にこの原稿が届いたとき、「絶対これを最後に持ってきたい」と話し合ったのを覚えている。何よりもこの文章の持つ強烈なパワーを最後に浴びてから、この本を閉じてほしいと思った。大槻さんの文章には、意図していようがしていなかろうが、人を勇気づける力が備わっていると思う。それは紛れもなく、大槻さん自身が先陣を切ってわからなさの只中へ突き進んでいく、詩のような人だからだ。

 

編集後記/藤井佯

この本が編集部の手を離れ、羽ばたき、この本をめくる指をとまり木として羽を休め、鮮やかな羽と妖しい囀りで誰かを魅了することを願っている。

超願ってます。

念のため、もう一度貼っておきます。

zo-q-kai.booth.pm

(もしあなたがまだ『異界觀相』を未読で)ここまで読んで「面白いな」と感じてくれたのであれば、ぜひ本誌を手にとってみてほしいです。

(もしあなたが『異界觀相』を既に購入していたら)ありがとうございます。よかったら感想を「#異界觀相」で教えてください。「觀」の字が旧字体で変換しにくくてごめんなさい。

11月に新刊を発行予定です。人が殺せる仕上がりになりそうです。とにかく提出された原稿の圧がすごいです。楽しみにお待ちください。

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。