コインランドリーで失踪

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海へ至る

 久々に日記を書いてみようと思う。と言っても、実は日記自体はほぼ毎日つけていて、日記をこうした形で公開するのが久々ということだ。私は見た景色をあまりにもそのまま書いてしまうので、大学を卒業してからは日記を公開するのを控えていた。少し前、ある人から「最近、日記書いてくれないですね」と言われたのだが、そんなに読まれるものでもないし読んでも楽しくないだろうと思っていたので驚いた(以前はnoteに毎日、もしくは週ごとに書いたりしていた)。今日は気分が乗っているのでこうして公開するが、次はいつになるか分からない。

 

 水曜日は、毎週休みにした方が良いと感じる。何度寝かを経て昼に起床する。しばらくぼーっとしていたが、腹が減って動けなくなる気配を感じたので、何か食べに行くことにした。1ヶ月ほど台所は使い物にならなくて、ここしばらく家にいる時はカップ麺かゼリーか羊羹かしか口にしていない。あとは、コンビニで何か買ってくるか。生活は回っているとは言えなくて、ダンボールやら紙くずやらで部屋に足の踏み場はないし、常に体調は悪い。適当に着替えを済ませて家を出る。

 一ヶ月ほど前、小説を書き上げた。私は鳥が大好きで、今回はヘビクイワシという美しい鳥を登場させた。私は知らない土地を書くのが苦手なので、小説の舞台は自分がある程度知っている街に設定することが多い。自分の街を舞台に小説を書くと、楽しい。見知った場所で、作中人物たちが会話を交わす。見知った場所が、破壊される。見知った場所が、別の意味を持つ。今日は、冒頭で主人公二人が邂逅する町中華に昼飯を食べに行くことにした。

 主人公は、「町中華で最も美味しいのは、かたやきそばだと決まっている」と思っている。私も、それは否定できないなと感じているので、その店でかたやきそば以外をまだ頼んだことがない。店の前に3人の人間が立っている。そうだった、私が今日会社に行かなくていいのは今日が祝日だからだ。私の住む街は観光地で、それも日帰りで訪れやすい場所にあるものだから、こうした日には街が人で溢れかえるのだった。一人ならしばらく待てば入れるだろうかと列に加わる。団体客が親切で、「一人席が空いたら先にこちらさんを通してあげて」と店主に提案して、私は先に店内へ通されることとなった。かたやきそばを頼んだ。

 入口の引き戸に嵌められた磨りガラスを見ていると、ついヘビクイワシの女がそこに佇んでいるのではないかとそわそわしてしまう。実際には店は道路から一段高いところへあって、磨りガラスの先に見えるのは先ほど順番を譲ってくれた団体客らの頭の一部だけだった。かたやきそばは記憶していたよりも量が多く、これは私がここ二ヶ月ほど食欲を失っていることと関係しているのかもしれなかった。

 ふらふらと家路につき、コンビニへ寄る。無性にオレンジジュースが飲みたくなるときがある。パックのそれと、アイス売り場にブドウ味のパピコが積まれているのを見て、一袋掴む。橋があり、その下に比較的汚染されていない川が流れている。この橋は、ヘビクイワシの女が欄干に飛び乗ってやじろべえのようにゆらゆらと揺れていた場所で、私はパピコを咥えながら橋に凭れかかって川を眺めることにした。遠くの方で工事をしているようで、太い男の叫び声が上流から流れてくる。鷺がいた。鴨も二羽。鷺は川の中央に出っ張った大きな岩の上に、一本足でじっと佇んでいたが、徐ろに羽を伸ばし、その後勢いよくバサバサと着水した。水浴びをし、満足したのかゆっくりと川底を踏みしめながら一歩一歩岸の方へ近づいていく。やがて川べりへ上がって動かなくなった。今日は天気が良い。11月とは思えない暖かさで、適当に選んだ服では少し汗ばむほどだった。今日は特にすることもないし(なんて素晴らしいのだろう)、せっかくだから作中に登場させた場所を歩いてみることにする。海へ出ようと思った。

 一度家へ帰る。日光を浴びすぎると体調が悪くなるため、帽子を被り、少し涼しい服装に着替え、本とブルーシートを持って再び家を出た。昨日から部屋に紛れ込んでしまったと思しきコオロギの鳴き声が部屋の中に響いていたが、場所を特定することができなかったため諦めた。珈琲が飲みたくなったので、商店街の方へ出て水出しアイスコーヒーをテイクアウトした。昨日も購入したのだが、私の記憶が正しければ昨日よりも70円値上げしていた。観光客価格、ということだろうか。

 真っ直ぐ歩くと海へ出る。作中では、二人は大通りのど真ん中を人力車で、海を超え月まで驀進するのだが、私は、同じ海へと至る道でも裏の通りを歩くほうが好きだった。子供の靴の片方、銀木犀、回収されないままのゴミなどを発見し、ひたすら海を目指して歩いてゆく。この道を通るのはいつも決まって夜中だったから、周囲が明るいというだけで新鮮な心地がする。果物屋の奥に水平線が見える。ここの果物は、食べたら戻ってこられなくなるんじゃないかな、と思っている。

 夜の黒々とした海しか知らなかったが、昼間だと人がたくさんいる。犬もいる。砂浜の一画にブルーシートを敷き、アイスコーヒーのカップを砂浜に挿し、靴を脱いで腰を下ろす。本を取り出し、胡座をかく。そうしていると、どうして家の床には凹凸がなくまっ平らなのかが不思議に思えてくる。砂は柔らかいようで硬く、体重をうまく分散してくれるのか、あまり疲れないように感じる。荒川修作はやっぱりすごいな、などととりとめもないことを考えながら、ちびちびとアイスコーヒーを啜る。少し離れたところに、私と同じようにしてシートを敷き寝そべっている男性の二人組がいた。そのまた遠くには、キャンピングチェアに腰掛けながら焚火にあたる夫婦、バケツで砂の城をつくっている幼い少女とその父親。海にはサーファーやヨット、遠くの方にも人影。海面に立っていたり、座っていたりする。最近は、SUPというのが流行っているらしいが、遠目には独自の漁を行っているようにしか見えず、眺めているとなかなか面白い。日は既に傾いていて、海に橙色をした光の道をつくっている。二人は夜にここへやってきて、月光でできた道、ちょうど今見ているような、天体へと通じる光の道を伝って月へと至ったのだなと納得する。これでは確かに月まで到達してもおかしくはない。

 波の形は寄せて返すたびに変化しているし、人間たちは絶えず動いているのでいつまで見ていても飽きない。空にヘリコプターや鳥の影。雲の形も一秒たりとも同じではない。本なんて必要なかったな、と思う。試しに数ページめくってみたが、目の前の光景に気を取られて中身が入ってこない。学生時代、友人と夜の公園で満月が動いていくのを眺めていたら、そのまま夜が明けてしまったのを思い出した。会話は殆ど交わさず、二人してひたすらベンチに腰掛け上を見ていたら、周囲が明るくなっていた。あるいは、交通量調査のアルバイトでひとところから動かずに通り過ぎる人々を観察していたとき。自然の中にいると、人間は時間がゆったりと流れているように感じるのかもしれないが、実際は海や空ほど目まぐるしく動き続けているものはなく、それがとても不思議に感じる。だが、労働している時とは全く異なる時間がそこに流れていることは体感できて、どうしてこんなにゆったりとした街で私たちはせかせかと働いているのか、常々奇妙なことだと感じる。天体の動きは意外なほど速く、日が落ちていくのを見れば、普段そのようなことを意識していなくても、その異常なスピードに気が付けるだろう。つるべ落としがどうとか。よく言ったものだなと思う。海にいる人たちは、それぞれ言葉を交わすことはあまりないが、それでも同じものを見ていることが多く、奇妙な連帯感があって心地よい。以前海へやってきたときは、月食が起こるという日だったがそのときも皆、砂浜に立ち空を見ていた。生憎、曇りがちで月食は全く見えなかったのだが、見えないものを皆で見たという体験が、なんだかとても強く印象に残っている。日が落ちかかり、その方角を皆が向いていた。海の中にいる人も、焚火をしている夫婦も、砂浜にいる者が皆、空を見上げ、日が落ちてゆくのを見届けている。スマートフォンを構える人もいた。スマートフォンが発明された今でも、自然の方が何より面白いというのは本当にすごいことだと思う。砂の城をつくっていた父娘が日の入りとともに帰路へついた。太陽が消えると明らかに人の影が減る。気がつくと、「帰りたくねー!」と叫びながらシートの上をごろごろしていた男性二人組の姿も消えていた。光る首輪をつけられた犬が散歩している。フリスビーが投げられ、それを空中でキャッチしていてすごいと思った。私にはできないだろう。近くに柴犬が寄ってきて、砂を蹴り上げた。急いでコーヒーを避難させる。幸運にもカップの中身が砂まみれになることはなかった。飼い主らしき女性が近づいてきて私に謝っている。その後、「ダメでしょ、ちゃんと後ろを確認してから蹴らなきゃ」と犬に対して説教をしていた。

 日が落ちてくると流石に肌寒く、今度は炬燵でも持ってこようと決意する。一番星が出たので星の名前を確認する。これが金星か、という発見がある。二番星、三番星は木星土星だった。ここのところ忙しく体調は崩しがちで、心拍数が全く下がらなくなったり酸欠になったりと散々だったが、海を見ているとそういうのはかなりどうでもよくなってくる。おそらく私はここに一日中いても飽きることはないのだろうという確信が出てきて、それが「まあ、なんとかなるな」という漠然とした自信に繋がり、海はかなり心身に良い気がする。家の中だけでなんとかしようとしていたが、外へ出て、なるべく一人で、目まぐるしく変化するものを眺めながらぼんやりすることが必要だったのだ、という気づきがあった。繰り返していた時間の外側に一度、出なければならなかった。大丈夫になった気がしたので、帰ることにした。シンクに洗い物が溜まっているのも、家にこれといった食材がないのも、二ヶ月ほど自炊を全くできていないのも、なんとかできそうな気がしたので、スーパーにでも寄ろうとしばらく浜辺を歩いた。河口へ出た。私が昼間に見ていた川が、海へ至ったのだと気付いた。砂浜は水で遮られ、向こう岸へ渡るのは難しそうだった。橋が架かっていたのでそこへ向かった。気が付かないうちに靴の中に砂が入り込んでいて、足の指をこすらせるとじゃりじゃりとした感触がある。橋へと登る階段を一段一段進んでいくと、砂に靴を埋めるふかふかとした感触が次第になくなっていき寂しい。橋の中央へ出ると眼下に川があり、その先で海と混ざり、さらにその先に金星があった。鷺が一羽、川と海と金星と、そのすべてを繋ぐ中間地点に佇んでいた。空があまりにも暗く、カメラには映らなかった。

 海を離れ、一本道を歩いているとたまたまスーパーを見つけた。いつも使っているところより少し安価な気がする。気がするだけかもしれないが、そういうものなので味噌汁に入れる野菜と、麻油鶏の材料を買った。レジに日本野鳥の会の募金箱が置いてあって、表面に卵の柄がプリントされており、下部に小さく「タンチョウの卵原寸大」と表記されていた。鳥好きしか喜ばない情報だな、と思いながら百円玉を募金した。

 帰宅して、まだ家の中でコオロギが鳴いている。高いところから降りてこず、捕まえられないので外へ出してやることもできない。洗い物を片付けた。シンクは詰まっていて、フィルターを替え、ドロドロとした何かを取り除いた。しばらくすると、料理のできる環境が整って、生姜と手羽先を火にかけた。麻油鶏が私は大好きで、それを飲むたび「こんなに少ない材料で、こんなに少ない調理工程で、なぜこんなに旨味が出るのか」と新鮮に驚いてしまう。この家に引っ越してきて、初めにつくったのも麻油鶏だった。何かをリセットするときに食べるものとして身体に染み付いているのかもしれない。食器を片付け、紅茶を淹れた。まだ、部屋に足の踏み場は殆どないが、台所が回復すれば、なんか大丈夫な気がしてくる。明日は早起きだし、取引先の本社へ出向かなければならないが、それもなんとかなるような気がしてきた。こういう日は、さっさと寝るに限る。